東武鉄道の新型特急列車「スペーシアX」日光行きの先頭車両は「コックピットラウンジ」だ。背の低いソファ席を採用し、どの席からもすべての窓を見渡せる。一角にカフェカウンター「GOEN CAFE SPACIA X(CAFEのEは仏文字のアクサン・テギュ付)」があり、クラフトビールや地酒、日光珈琲、ソフトドリンク、和洋のおつまみやスイーツを販売する。

「コックピットラウンジ」の開放感とおもてなしのモチーフは、日光の老舗ホテルや外国人向けの別荘のリビングだという。日光は、明治時代に日本を導いた外国人たちの憩いの地だった。その伝統を最新の列車が引き継いでいる。

「スペーシアX」のコックピットラウンジ。日光寄りの先頭車だ ©佐藤亘/文藝春秋

日光が在日外国人に知られるようになったきっかけ

 日光は奈良時代に創建された中禅寺をきっかけに山岳信仰の地となった。日光および日光山、日光権現の名は鎌倉時代に広まったという。そして江戸時代、徳川家康の遺言「神となって八州の鎮守となる」によって東照宮が建てられた。以降は歴代将軍が参拝し、江戸庶民にも参詣が広まった。その結果、道や宿が整備され、明治時代に外国人観光客が訪れる環境ができていた。

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 1853年にペリーが来航し、1854年に日米和親条約が結ばれて日本は開国した。1862年、英国の公使館通訳としてアーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)が来日する。後に佐藤という日本名を使うけれども、Satowはスラブ系民族の苗字。

 サトウは1872(明治5)年に日光を訪れ、とても気に入り、横浜の英字新聞に寄稿した。日光が在日外国人に知られるきっかけだ。そして1875年に「A Guide Book to Nikko」を出版。日光連山や中禅寺湖、東照宮の見事な建築や温泉は海外にも伝わっていく。サトウは1896(明治29)年に中禅寺湖畔に別荘も建てている。

日光東照宮によって人々の往来が増えた。この碑は渋沢栄一が建てた(杉山淳一撮影)

日光金谷ホテルは創業150年

 サトウが訪れる2年前の1870(明治3)年。アメリカ人宣教医のジェームズ・ヘボン博士が日光を訪れた。「ヘボン式ローマ字」で知られるヘボン博士だ。せっかく日光までやってきたのに宿が空いていない。困り果てたヘボン博士をみかねて、東照宮の雅楽師、金谷善一郎が自宅を提供した。ヘボンはたいそう感激し、その体験を聞いた外国人たちが金谷を頼って訪れるため、自宅を改装し、それでも部屋が足りないときは近隣の住宅の部屋を斡旋したという。