オダギリ まずは脚本ですね。石井さんの書く脚本は独特です。職業柄、いろいろな脚本を読んできましたけど、かなり突出した作家ですよ。
専業の脚本家のほうがむしろオリジナリティをなくしてるんじゃないか
――『月』も脚本の段階で驚かされましたか?
オダギリ ええ、今回はストーリーのほうが際立ちますけど、それぞれのキャラクターが話す言葉だったり、選ぶ行動だったり、そういうものの中に石井さんの鋭さが表れているのは確かです。石井さんの場合、ホームドラマでも、学生が主人公の恋愛ものでも、そこに石井さんらしさが必ずあるんです。自分でも脚本を書くようになって、それがいかに大切なことなのか気づくようになりました。
むしろ専業で脚本家をしている方たちのほうが、そういうものをなくしてしまっているような気がします。上手にまとめようとするあまり、オリジナリティをなくしてしまっているんじゃないかと。石井さんの脚本は、毎回すごいものを読んだなと思うような脚本なんです。
――たしかに完成した作品を観ても、いびつなものがいびつなまま残されているのをよく感じます。
オダギリ そのいびつさを楽しんでいるようなところがありますよね。きれいなものよりも、ゆがんだものや欠けているものに目が向いているんじゃないですか。そこは僕も似ていると思います。まとまりよく美しく作ったからといって、それが自分で面白いと思えないんですね。むしろ崩したくなるんです。石井さんを見ていると、たまに自分を見ているような感覚になりますね。
――『月』に関していうと、助演するオダギリさんの演技が感動的でした。殺伐とした世界に唯一の光を灯すような役柄で。
オダギリ 本当ですか? ありがとうございます。
――ただ過去のインタビューで、オダギリさんは「芝居のよしあしは単に観る人の好みにすぎない」と話しているんですね。芝居にはよしあしなんてないし、人が褒めようがけなそうが、自分にはあまり関係ない、と。
オダギリ まあ、極論はそうなんですよね。芝居は評価できるものではないと思っているんです。正解があるわけではないし、点数をつけられるものでもないから。だからそれを他の人に理解してもらおうと思っても無理がある。芝居はあくまで表面に見える部分で判断されますけど、俳優がやるべきことは表面のことだけでなく、その内側や裏側のことで、そういった目に見えない部分にこそ違いが出ますからね。
だから理解されたいと思うこと自体に無理があると思っています。なにがいい芝居なのかは、自分で見つけるしかない。人に判断してもらうのではなく、自分の中で問いつづける修行のようなものですね。もちろん褒められることは人として嬉しいですよ。天邪鬼みたいなところもあると思いますけど。複雑ですね。