1ページ目から読む
3/4ページ目

疑問をぶつけてみると意外な答えが

 話を聞いたのは、近くに住む吉永美穂(よしほ)さん(89)。まずは、大渡隧道がある道路のことを聞いてみた。するとあっさり、かつてこの道が国道33号だったと教えてくれた。

 吉永さんによると、大渡隧道が国道だった当時には、国鉄バスが運行していたという。高知から来るバスと愛媛から来るバスがあり、ちょうど大渡隧道の近くでそれぞれ折り返していたそうだ。

話を聞いた吉永美穂さん。バスの運転士は吉永さん宅の2階で休憩することもあったとか

 木炭バスだったため、朝の始発は火を入れて準備するのが大変そうだったと、懐かしそうに話してくれた。

ADVERTISEMENT

 続いて本題の大渡隧道について聞いてみた。先ほど隧道を見て感じたこと、高い意匠性や隧道の短さ、地表までの距離に関する疑問をぶつけてみた。すると、「それは、ニッパツの発電所があったからやな」と吉永さん。ニッパツとは日本発送電株式会社のことで、電力会社の先駆けとして、戦後、GHQによって解体されるまで日本における発電・送電等の電気事業を司っていた。

 吉永さんの話では、大渡隧道の下の仁淀川沿いに、ニッパツが設けた水力発電所・旧大渡発電所があったという。仁淀川の上流4キロの地点から水路で水を引き、川との高低差を稼いだところで水を落として発電する水路式の水力発電所だった。大渡隧道の上部に水を滞留させる池があり、そこから川沿いの発電所まで、水管で水を落としており、隧道の真上には、3本の巨大な水管が通っていたという。

大渡隧道西側

 なるほど。この短い隧道を切り通しにしなかったのは、水力発電の水管を支えるという役割があったからだ。

 大渡隧道の竣工は1932年。この隧道は水力発電施設の一部として造られたか、あるいは水力発電所を設ける際に改修された可能性が高い。当時の水力発電施設は、外国人技師が設計するケースもあり、意匠性の高さから文化財に指定されているものも少なくない。大渡隧道が水力発電に関連して施工されたと考えると、意匠性の高さも頷ける。