1981年、アイルランドの田舎町。9歳の少女コット(キャサリン・クリンチ)は、いつも寡黙で大家族の中で「はぐれ者」扱いを受けている。家庭の事情から遠い親戚のキンセラ夫婦の家で夏休みを過ごすことになり、慣れない場所に戸惑うコットだが……。映画『コット、はじまりの夏』は少女の心に共鳴するように、説明的な台詞に頼らず人々の動きや美しい風景を見つめることで、感情の微細な変化を映しだす。クレア・キーガンの小説を映画化したのは、これが初の長編劇映画となるコルム・バレード監督。
「コットの一人称かつ現在形で綴られた原作を読むと少女の感情が自分のことのように感じられ、今まさに目の前で起きていることとして物語を受け止められる。この感覚を映像にそのまま移し替えたいと考えるうち、コットが頑なに貫く沈黙こそが鍵だと思い当たったのです。沈黙を映画でどう表現するのか。それは映画作家として課された素晴らしい挑戦でもありました」
コットが親戚に預けられる理由など、大人たちの事情は必ずしも明確には示されない。
「子供の時は、大人の世界で起きていることのすべては理解できないものです。でも何かが起きていることは感知できる。その子供の敏感な感情を、私は映像によって表現したいと思いました。例えば父親がある女性を車に乗せた時、後部座席のコットの目から、女性のイヤリングが揺れているのが大きく映ります。この女性が誰で父親とどんな関係にあるのかはわからなくても、2人の間に何か良くないことが起きていると気づいている。その不穏な気配が、揺れるイヤリングというイメージとして彼女の記憶に強く残るのです。こうしたコットの記憶に刻まれた断片的なイメージを、どの場面にも挿入しています」
劇中で強く印象に残るのは、コットたちが一緒に料理をしたり並んで歩く際の手の動作。
「手というものに強く惹かれるのです。人間の手は顔の次に感情を強く表現できる要素ですから。彼らが一緒に手作業をしている時間は、平凡なようで実は大事なひと時です。キンセラ夫婦がコットと並んで作業をするのは、彼女と一緒に時間を過ごしたいと思うからこそ。コットがそれを理解した時、じゃがいもの皮を剥いたり納屋を掃除したりという何気ない瞬間が、美しく崇高な時間に変化するのです」
本作は、ほぼ全編アイルランド語で作られた映画として、初めてアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。
「国内でもアイルランド語を第一言語とする人々は人口の2パーセント程度と言われ、主要な劇映画はほぼ英語で作られています。しかしアイルランド語には生存のために苦闘を続けてきた歴史があり、多くの人々はこの固有の言語に誇りを持っています。ここ数年、アイルランド語映画の製作を後押しするプロジェクトが始動し、本作のような作品が少しずつ増えてきました。その意味でも、この映画が国際的に成功を収めたことは大きな意味を持つと思います」
Colm Bairéad/1981年、アイルランドのダブリン生まれ。短編『父の息子』(05)で高い評価を受ける。その後、短編や長編ドキュメンタリーを手がけ、『コット、はじまりの夏』で長編劇映画デビュー。本作はアイルランド語映画として歴代最高の興行収入を記録した。
INFORMATION
映画『コット、はじまりの夏』(1月26日公開)
https://www.flag-pictures.co.jp/caitmovie/