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不安障害を発症したあと、両親と7年間会わなかった理由

――ご家族に対しての思いはどうでしたか。

小島 怒りの発散がある程度進むと、今度は「母はどんな気持ちで子育てをしたんだろう」とか「母と父はあのとき、どんな関係にあったんだろう」「母自身は両親とどんな関係だったのだろう」ということにだんだん興味が向くようになりましたね。

 少しずつ俯瞰して見られるようになって初めて「母も生きづらかったであろう」とか「父も孤独だったのでは」とか「姉も大変だったろうな」という視点を持てるようになって、徐々に理解が深まったという感じです。

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――不安障害の発症後、ご両親とはしばらく会わなかったそうですね。

小島 7年間会いませんでした。もともと両親には悪気がないので、「こんなに手塩にかけて育ててあげたのに急に『あれは苦しかった』とか言いだして、いったい何が不満なの」と怒るわけですよね。無理もないことです。そうすると話し合いにならず、私も怒りをぶつけてしまう。だから、しばらく会わないでおこうと。

 両親との連絡はすべて夫を介して行って、「会えそうだな」と思うまで待ちました。それで7年かかったんですが。

――7年経ってお母さんと再会してみて、どうでしたか。

小島 「あ、変わってないな」と(笑)。今となっては笑い話ですが、当時、7年ぶりの再会でとても緊張しながら会いに行くと、マンションの下まで迎えに来てくれた母がツカツカと歩いて来て、私の肩をツンとつついて、確か「慶子、元気だった?」とか何とか言ったんです。「うわっ、いきなり近すぎる、相変わらずのこの距離感!」と思って。でもそれから時間が経つにつれ、関係は変わっていきました。

オーストラリアに教育移住する直前、空港で両親と握手をして…

――どのように変わったのでしょうか。

小島 印象的だったのは、2014年に、私たち夫婦と子どもがオーストラリアに教育移住する決断をしたときです。空港まで両親が見送りにきてくれました。私1人が働いて家族を支える形で、2拠点家族として日豪の新生活を始めることにしたのですが、選んだのは私が生まれたパースという街。両親が私を育てた場所ですから、2人は喜んでくれて。でも当然ながら、とても心配して。

 出発ゲートの前で、老いた2人が握手をして送り出してくれました。手を振って別れた後、涙が止まらなくなって。「どうしてこんな形でしか出会えなかったんだろうか」「もっといいやり方があったんじゃないか」という思いは、今もあります。

 

――それまでの怒りなどの気持ちが一変したのですか。

小島 憎いとか、恨むとかいう気持ちはあのときにはもうなかったです。ただ「どうしてこうなっちゃったんだろう」と。

 父も母も、子どものときに戦争を経験しています。焼夷弾が降り注ぐ中を逃げ、強烈なトラウマを抱えながら戦後の飢えと貧困を生き延びて、家庭を持って一生懸命幸せになろうとしたのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろうと思うと、やりきれなくって。空港で手を振ったとき、幼い息子たちと高齢の父母が会うのはこれが最後になることもあるかもしれないと思いました。