『時々、私は考える』が心に残る温かい映画だった。原題は「Sometimes I Think About Dying」。「Dying」、つまり時々私は「死について」考える、というタイトルだ。『時々、私は死について考える』という邦題だったらぎょっとしていたかもしれないが、強い言葉を省略した形で名付けられたこの邦題は映画の雰囲気をとてもよく表している。
日常の中で「私もいつか死ぬのか」と思い出し、途方もない気持ちになることはあっても、自分が死んでいる状況について積極的に想像する時間は、ほとんど持ったことがない。だからたびたび、自分の死について考えてしまう主人公フランのことが、当初とても不思議に思えた。私にはない感覚だった。
明るさが伴う死への空想
フランが想像する死は、まったく暗いものではない。新しい朝を迎えるとき、同僚たちの雑談にうまくなじめない仕事中、電子レンジの温めを待っている最中。彼女はたびたび空想の世界に逃げ込む。
自分しか存在しない、安全な想像の世界で、自分が死体となって横たわる姿を妄想している。そこには明るさが伴っていた。幻想的でダイナミックな音楽と、美しい画面構成によってフランの想像は魅力的なものとして描かれる。
死について考える行為は、自分を殺そうとする暗さからくるものではないようだ。突然やってくる豊かな空想のシーンは、彼女の個性として魅力的に映り、惹かれていくのがわかった。
同僚とも家族とも積極的には交流しない
舞台はオレゴン州アストリア。静けさの漂う港町だ。フランは、この町で暮らし、働いている。
事務の仕事に就いており、人付き合いが苦手で不器用な性格の彼女には友達や恋人はおらず、職場でも同僚と積極的には話さない。仕事が終わると真っ直ぐ家に帰り、静かな時間を過ごしている。
フランは作中でも自己開示をほとんどしないので、観客も彼女について推測するしかない部分がある。
たとえば夜、彼女の母親から電話がかかってくるシーンがあるが、フランはその電話をとらない。とろうとしなかったのか、ちょうど取り組んでいた数独に夢中で気づかなかったのか、定かではないが、家族とも積極的な交流をしていないことがシーンから伝わる。