他者との関わりがきっと分からないだけ
フランは徐々に、私の中で応援したい存在になっていった。人との交流が極端に少ないフランだが、他人を拒絶しているわけではないというのが分かってきたからだ。
それはたとえば、定年退職を迎えた同僚キャロルに対してメッセージを送るとき。あれこれと思い出を振り返るけれど、気の利いた言葉は出てこない。当たり障りのない「定年退職おめでとう」の言葉が、フランの精一杯だ。
彼女を見送る会でも、フランは所在なさげだった。他の同僚の明るい振る舞いを、彼女は少し離れた場所から見ている。ケーキを受け取り、その場を立ち去っても問題ない雰囲気になったところで、彼女は自分の席に戻るのだった。
もしも同僚に対して本当にうんざりしていたら、きっぱりと関わらないこともできるはず。しかしそういった流れにささやかながらも関わろうとしている姿から、フランは本当は他者との関わりを望んでいるように見えた。きっと、分からないだけなのだ。
「死」を思うこと=「生」を考えているということ
そのことに気づいたとき、フランの死の空想の理由が、分かるような気がした。死について考えることは、裏返せば、本当はこの現実と上手くやりたいと思っている、ということでもある。
一人で過ごし、空想の世界に浸ることは、自分を安全地帯に押し込むこと。自分とは異なる価値観を持つ他者との関わりには、痛みや軋轢が伴う。他者とのつながりには、その痛みはきっと必要なものなのだけれど、フランは勇気が出ない。
孤独や寂しさを感じたときに、フランは空想の世界に逃げてしまう。安心な空想の世界に。自分から最も遠い「死」を思うことは、「生」について考えているということでもあるのだ。他人と関わることがなければ傷つくことはないけれど、それでもフランは他者とのつながりを望んでいるように見えた。
授業中、教室の窓越しに想像していた世界
私も昔よく妄想をした。たとえばそれは、高校の数学や物理の授業中だった。
一年生で文理選択に失敗し、自分の進路を文系に定めたときには、選択した理系のカリキュラムを変更できなくなっていた。受験には関係なくても数学の授業は週に8コマあり、理科系の授業も3コマあったのだが、私はそれらの教科にほとんど興味が持てなくなってしまった。
窓の外には山が見えて、トンビが鳴きながら高いところを旋回している。夏でも吹き抜ける風が気持ちよかった。見える山々の向こうにある町のことや、トンビから見える世界のこと、まだ行ったことのない町や国のことをたびたび想像した。