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「朝日や毎日より...」

「朝日、毎日のような大きいところに行って手間暇かかるよりは、三番目ぐらいの新聞に行ったほうが早くトップになれる」(「渡邉恒雄 メディアと権力」魚住昭・講談社)

 なんと入社当初から社内制覇の戦略を練っていたのだ。共産党では挫折したが、そこで学んだ権力掌握術を読売新聞社内での権力闘争や出世闘争に利用したのだ。転んでもただでは起きないナベツネである。

©文藝春秋

 ジャーナリストの魚住昭氏は、こうしたナベツネの「社内政治」の起源について、彼が大学生の共産党時代に「『ごく限られた少数者が多数を思い通りに動かせる』という政治の妖しい力に魅入られてしまったことだろう」とも著書で指摘している。学生時代から「政治」への萌芽はあったのだ。

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 読売に入社後、その野心的でエネルギッシュな姿勢は政界にも向けられた(当然の流れにすら思える)。政治記者として自民党副総裁や衆院議長を務めた大野伴睦や中曽根康弘元首相らに食い込む。

鳩山家の「子守り」として懐に入る

 大野に信頼されたナベツネは、大野と入閣推薦候補を選定する作業をしたりするなど記者の域を超えた暗躍をする。鳩山一郎に食い込む際には幼い孫(由紀夫、邦夫)を背中に乗せて馬になってあやして気に入られたという。人の懐に飛び込むのが天才的だったナベツネ。よくナベツネの茶目っ気や憎めないキャラを褒める人もいるが、人心掌握のためにそうした振る舞いが身についていたという見方も必要ではないだろうか。

 「渡邉恒雄回顧録」を監修した御厨貴・東大名誉教授が、今回朝日新聞に語っていた内容が興味深い(12月21日)。御厨氏は長時間インタビューをして。ナベツネはいつから今のナベツネになったのか?

《盟友の中曽根さんが総理を終えた後に、禁欲さがなくなった。読売の社長の地位をいかに維持するかということに変わった。昭和が終わったぐらいの時期からお座敷取材を始める。政治家と会うことを、純粋にネタを取って記事を書くというよりも、読売内の権力を維持し、他の新聞社を脅すことに使った。》

 一方、魚住昭氏は共同通信の評伝で20年以上前のナベツネの言葉を紹介した。