追放刑や耳鼻そぎ、陰茎切り、小指切りも…

 この時代には追放刑というものがあり、それには重追放・中追放・軽追放の三つの段階があった。重追放は、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、大和、和泉、肥前、甲斐、駿河、東海道筋、木曽街道筋への立ち入り禁止。中追放は、武蔵、山城、摂津、大和、和泉、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道筋、木曽街道筋、日光街道筋への立ち入り禁止で、重追放と中追放ともにこれ以外の国の居住者の場合には、自身の居住する国を追放され、他国で悪事を働いた場合は当然、その国からも追放された。

 また重追放の場合には、田畑、家屋敷、家財の闕所(没収)などが加わることもあった。中追放では田畑屋敷は闕所となったが家財の没収はなかった(「長崎町乙名手控」)。

 加えて軽追放があり、江戸10里四方、京、大坂、東海道筋、日光道中、日光が立ち入り禁止の対象であった。これは全国の幕領に適用されるものであったので、当然、長崎も含まれた。

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 この他、長崎から追放される「払(はらい)」があり、種類として、長崎追払(市中・郷中の払)、長崎10里四方払、市中・郷中払があった。

 遠島(えんとう=流刑・流罪など)は「公事方御定書」に、「江戸より流罪之ものハ、大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島、右七島之内江遣、京・大坂・西国・中国より流罪之分ハ、薩摩五島之島々・隠岐国・壱岐国・天草郡江遣ス」とあるように、刑の執行場所によって流刑地は異なっていた。日本を東西に分け、江戸町奉行所と大坂町奉行所から遠島地へ送られたのだった。

 長崎の場合は、長崎代官であった末次平蔵茂朝が隠岐に流されたことはあるが、通常は五島・壱岐・薩摩などに流されることが多かった。享保元年の「長崎奉行所にて仕置申付候心得の覚」(『通航一覧』第4巻)によると五島への流罪対象者は、犯罪を未然に防ぐ意図もあってか、生所が長崎で罪を犯してはいないが、長崎に留めることはできず、他国へも出せない者、遠国奉行支配下・御料(幕領)支配下の者で長崎において吟味したものの犯罪が立証されなかったが、生所へ戻すのも問題があるとされた者、流罪の対象であるが軽科の者であった。

長崎・五島列島 ©AFLO

 流罪のうち重科の者、そして九州・四国・中国筋の船乗りで、死罪にまでは値しないが本国に戻すのが問題である者は壱岐への流罪に処せられた。これには五島が唐船往来の場所であることから、彼らが流罪先でも抜荷など密貿易に関与することを予防する意味があった。

 身体を傷つける耳鼻そぎ、陰茎切り、小指切り、入墨といった刑罰も当時はあった。これらは見せしめの効果をねらったものであった。このうち鼻そぎは死なない程度そがれていたという。清水克行はアイヌ人の現存する古写真から「鼻の梁骨を残して小鼻と鼻頭を切り落とすものであった」ことを参考に日本の中・近世も同様であったと推測している。ただこの刑は「公事方御定書」によって排され、その代わりとして入墨刑が本格的に導入されるに至った(清水克行『耳鼻削ぎの日本史』)。入墨は地域、藩によって場所と形が異なったが、主に腕に行われ、前科者の目印ともなった。

 身分制の社会には、身分の移動に関する刑罰も存在した。非人手下と奴婢である。非人手下は、平人から非人へと身分を切り替えられるもので、町から相対で非人手下へ引き渡すこともあった。町からの場合、元文元(1736)年までは町から一人につき5貫文が添えられ、これ以後は10貫文となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻 365頁)。奴婢とは、同一犯罪に対して科す刑罰に男女差がほとんど見られなかった時代にあって、例外的に女性のみに科される刑罰であった。奴隷刑であり、乞う者に下し婢となる者や年季なしの女中奉公をする者などがいた。

 ほかに地役人であれば役儀放免、商人であれば株の取り上げといったものも行われた。