無名時代の苦悩を重ねる日々があらわに
《かの女の給料日であった。もう夏は目前であった。どんより雲の下のかの女の笑顔はとても明るかった。自分はこの女のために何ができるか?
近くのスーパーで買物をした。かせぎのない自分はなにか居場所のない犬のようにかの女の後についてゆくだけ。
しかし、かの女は自分のことを責めようとしない。
「あなたは他の人にないものがある」という。
そう信じ込んでいる彼女を自分は愛おしいと思っている。しかし、自分はこの女のために何ができるのか?
別に朝から何の予定もない日、自分は洗たくやソウジをする。別に苦にはならないのだが、なんだか変なものである。かの女の下着をあらったり、かの女のパジャマを押入れにいれてる自分の姿はいったい何者なのか?
自分はいつか言われるだろう! 「この能なし」と。
しかし、自分はその言葉に対してなんの恐れもない、否、むしろ「俺は能なしだよ」と言ってもよいのだ。》
当時、すでに一緒に暮らしはじめていた弘美さんによると、まわりからは「役者を目指している、健康的で社交的な青年」と思われていただろうという。時折〈翳り〉のようなものがのぞくことはあっても、外でも家庭でもつねに〈優しくて楽しい人〉だった、と。
20代の大杉さんは、こんなにも繊細で、優しい心情をたたえながら、大切な人たちの前で気遣いを絶やさず気丈にふるまっていたのだ。苦悩を重ねる日々のなかで醸成されたこの優しさは、やがて40代で俳優として多岐にわたる仕事で活躍するようになっても、終生変わることはなかった。さまざまな撮影現場によく差し入れをし、きつい状況下でもつねに仲間の俳優やスタッフたちに温かな気遣いを絶やさない人であったことは多くの関係者が知るところだ。
未発表ノートの詳細は、大杉漣著『現場者 300の顔をもつ男』(文春文庫刊)に収録された、大杉弘美氏の特別寄稿に記されている。国民的に愛された俳優の、もうひとつの顔が浮き彫りになる貴重な記録だ。