二〇一六年も、さまざまな役者にインタビューさせていただいた。中でも印象深かったのは、インターネットの生放送で対峙した佐藤浩市だ。
筆者が映画館巡りに没頭していた十代半ば前後。その当時=一九九〇年代、新作邦画はかなり不毛な状況に思え、刺激を受けたのは専ら洋画か旧作の邦画だった。そうした中にあって、「ただ一人」といっていいほど、新しい出演作が公開される度に追いかけた役者が、佐藤浩市だった。
いつもどこか鬱屈を抱えていて、それがギラギラした熱として現われながらも、燃え切らずに燻っている――そんな彼独特の「陰」が、やり場もなく原因や正体すら分からない苛立ちの中にあった十代の筆者のメンタリティに合致して、憧れとも共感とも言えるような好意を感じていた。
当時の佐藤出演の作品で特に好きだったのが、今回取り上げる『トカレフ』だ。
佐藤が演じる松村は、団地に暮らす平凡なバス運転手の主人公・道夫(大和武士)から全てを奪う疫病神――というより死神の存在だった。道夫の息子を誘拐して殺害、真相を知って襲ってきた道夫を返り討ちにし、挙句に何も知らない妻を寝とってしまう。
しかも、劇中で松村の動機が語られることはないし、これだけの凶行になぜ駆り立てられたのか――佐藤はその狂気を表立って表現していない。淡々とした無表情を冒頭から絶えず浮かべ、映し出されるのは松村が送るパッとしない日常だけ。そして実は、そのことこそが本作の肝だった。
インタビューさせていただいた際、本作での役作りについても佐藤からうかがうことができた。佐藤は松村を「根っこにある捻じ曲がった暗さというか、歪みみたいなものを出せる役」と解釈、当初の台本では「毎日睡眠誘導剤や精神安定剤をバリバリ噛む」という分かりやすい「病み」が描かれていたのを、自らのアイディアで「ごくごく普通にそこにいる人で、表層的な生き方からはそういう病みが見えない人」へと変更したのだという。その狙いに、劇場にいた筆者は見事に乗せられていたのだと気づいた。
松村の異常性を際立たせなかったことで、彼の凶行は「平凡な日常の奥底に潜む狂気」として表出することになる。その結果、観客自身が「自分を含めて誰しもが、松村のような狂気を内包しているのでは」と突きつけられた気分になってくるのだ。とにかく苛立っていた十代の筆者からすると、松村の衝動が全く彼岸の出来事には思えなかった。
先日のインタビューは、そんな若い日の危うさをも思い出させてくれる、嬉しくも恐ろしい「答え合わせ」だった。