ある時期、鈴木には恋人がいた
鈴木は奨励会員として、真剣に将棋に取り組んでいるつもりではいた。しかし、思うようには勝てない。そこで自分を変えたいと、いろいろもがいていた。
恋愛という青年らしい悩みもあった。ある時期、鈴木には恋人がいた。
「恋もしたかった。でも奨励会っていうのは、そういうところじゃない。だから、いろいろ悩んでたんです。葛藤はありました」
鈴木に恋人がいることは、周囲は知っていた。周りにも彼女のいる奨励会員はいた。しかしそれはやはり、一般社会と比べれば少数派だった。奨励会で勝っていれば、彼女がいようと、何をしようと、問題はない。しかし勝っていなければ、心ない言葉を聞くようになる。
「あいつは遊んでるから勝てないんだ」
そんな言い方をされる。恋人がいることと、将棋が勝てないこと。そこに関係はあるのか。
「本当はそんなのは、関係ないことだと思うんです。でも結局、それが将棋に負けた理由になってしまう。そこが悪いんじゃないかと思ってしまう。周りの目も気にしてしまう。それでダメになっちゃうんです。本当は関係ないのに……。それは今の私ぐらいの歳になればわかります。でもやっぱり、昔は、そういう気持ちにはなれませんでした」
恋人とは、別れた。
「彼女と別れると、全然勝てなくなるという場合もあります。逆もあるんです。それで急に頑張れるということもある。どっちかはわからないんです」
筆者が見てきた限りでは、若手棋士や奨励会員が付き合っている女の子は、将棋を全然知らないという子もいれば、かなり将棋を指す子、あるいは同じ業界内の子もいた。一般論としては、同じ業界同士の男女が付き合うのは、メリット、デメリット、いずれもあるだろう。たとえば、外部からはうかがいしれないような様々な事情を、お互いによくわかっている。面倒な説明をしなくても、通じ合えることは多いだろう。しかし一方で、お互いにそれぞれの立場、置かれている状況が、シビアにわかってしまうこともある。
気がつけば、鈴木は21歳になっていた。その時、二段。勝てない時期が続き、メンタル的にも、相当弱っていた。
「なかなか勝てなくて、三段に上がれない。悩んで、もう奨励会を辞めようと思いました」
「最後に、大阪の関西将棋会館を見に行こう」
鈴木はずっと関東奨励会に所属してきた。そこでふと思った。
「せっかくだから最後に、大阪の関西将棋会館を見に行こう」
奨励会員がそんなに金を持っているはずがない。それでも、夜行バスに飛び乗って、一路大阪を目指した。
日本将棋連盟の拠点である将棋会館は、東京と大阪の2か所にある。すべての棋士は、関東と関西のどちらかの組織に所属している。2018年11月現在、現役棋士の総数は165人。そのうち、関東所属は109人、関西所属は56人だ。数としては、ほぼ2:1の割合である。
長い間、どちらかといえば関東の方にトップレベルの棋士が多かった。しかし近年、関西所属の優秀な若手棋士が続々と現れ、将棋界を席巻しつつある。タイトル経験者だけを挙げても、豊島将之王位・棋聖(28歳)、斎藤慎太郎王座(25歳)、糸谷哲郎八段(元竜王、30歳)、菅井竜也七段(前王位、26歳)。ごく最近の話をすれば、愛知県瀬戸市在住の藤井聡太七段も、所属は関西である。
鈴木は関西将棋会館3階の棋士室に、3日間ぐらいずっと居続けた。そこでいろんな相手に対局してもらった。結果は、惨憺たるものだった。
「全部負けました。もちろん相手は強かったです。奨励会三段とか(四段以上の)プロとか。でもちょっと悔しかったんです」