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将棋アマ名人を獲得した鈴木肇が、再びプロ棋士を目指すまで(前編)

将棋アマ名人を獲得した鈴木肇が、再びプロ棋士を目指すまで(前編)

誕生日にはまるでいい思い出がなかった

2018/11/30

2度目の挑戦で奨励会合格を果たした

 2001年。中2の鈴木肇と、従弟で小6の森村賢平は、どちらも将棋のプロへの道を志した。そのためには、棋士の養成機関である奨励会に入会しなければならない。奨励会受験に当たっては、将棋連盟の正会員である棋士に師匠となってもらう必要がある。鈴木は所司和晴六段(現七段)、森村は宮田利男七段の門下となった。

 奨励会試験の結果は、鈴木は不合格。森村は合格だった。ここでも鈴木は、2歳下の従弟にリードを許した。その後、森村は奨励会で、順調に昇級、昇段を重ねていく。

 翌2002年。中3となった鈴木は、2度目の挑戦で奨励会合格を果たした。決して遅いスタートではないが、早いわけでもなかった。

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 同学年とはいえ、鈴木から見て佐藤天彦(現名人)などは、はるか先を行く存在だった。鈴木が6級で入会した時、佐藤はすでに三段だった。

 将棋界では一般的に、「同期」という言葉は、奨励会入会の年度が同じことをいう。関東奨励会で鈴木と同期となる2002年入会組は、13人だった。後で振り返ってみれば、奨励会を抜けて四段になったのは、わずかに1人だった。

 鈴木は比較的順調なスタートを切った。中3で6級からスタートして、高1の時には2級に上がっていた。

 鈴木は最初、高校には通いたくなかった。しかし親の勧めによって、地元の男子高である、横浜高校に進学した。

「行ってみれば、学校生活は楽しかったですけどね」

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四段になれるのは年間4人しかいない

 奨励会員は修業とアルバイトを兼ねて、対局の記録係を務める。将棋会館で公式戦の対局がおこなわれるのは平日だ。もし記録係を務めるとすれば、学校を休まなければならない。鈴木が通った高校は理解があり、その日は出校扱いにしてくれた。それもあって、鈴木はよく記録を取っていた。

 当時、ゲームセンターに通っていたこともあった。

「メダルゲームとかしてました。他の子がやってるような、普通のことがしたかったんです。将棋だけをやってるのが、カッコいいとは思えなかった。バイトもしたかった。恋もしたかったんです」

 やがて鈴木の停滞が始まる。2006年度はじめには、従弟の森村は、わずか16歳で三段になっていた。一方の鈴木は1級に留まっている。

 プロの資格を得る四段となって奨励会を卒業できるのは、基本的には年間4人しかいない。奨励会入会者のわずか2割程度だ。多くの者が夢破れて去っていく。

 同期は少しずつ辞めていく。その中の一人に、2級で退会した巨瀬亮一(こせ・りょういち)がいた。巨瀬は後に、最強クラスのコンピュータ将棋ソフト「AWAKE」を開発して有名となった。「AWAKE」は2014年の電王トーナメントに優勝し、棋士とコンピュータの勝負の場である「電王戦」にも出場している。

 鈴木が真に勝つべき相手と思ったのは、自分より歳下の佐々木勇気(現七段)、黒沢怜生(現五段)、杉本和陽(現四段)などだ。彼らとの勝負には熱くなった。

「上がっていったスピードも同じぐらいだったんです。対抗意識があって、彼らとの勝負には燃えて熱くなりました」