グローバル化が加速する中、子どもの英語教育に熱心になる親が増えてきています。インターナショナルスクール、海外留学……これからどのような社会になるか、親自身が予想しにくい中で、試行錯誤で子どもの将来を見つめているのが現状ではないでしょうか。
2014年、軽井沢に日本初の全寮制インターナショナルスクール「インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)」が誕生しました。異なる文化や社会経済的バックグラウンドを持つ生徒を世界中から受け入れ、世界各国の大学へ進学することを目標にした国際高等学校です。その設立者であり、ご自身も留学経験があり、また2児の母でもあるISAK代表理事の小林りんさんに、新たな時代を生き抜くために親はどういう心構えでいたらいいのか、そして子どもにどのような教育をさせれば良いのか、お話をうかがいました。
私も高校から海外に出た組ですが、決して周到に計画して準備していたわけではなく、言ってしまえば「現実逃避」のような意識で海外の高校に行ってしまった人間です。
私は小学校の頃から変わっていて、とにかく忘れ物が多い子供でした。しかも、宿題をやらないのに、勉強は好きだからテストの点数は良い。「宿題をする意味がわかりません」なんて先生に言う可愛くない子だったので、先生に煙たがられているなと感じはじめました。
同じ頃、クラスメイトとも話が合わないと感じていました。我が家は、物より体験を大切にする家だったので、ゲームなどはほとんど買ってもらえず、その代わりに家族で貧乏旅行に出かけたり、スポーツに勤しむことが多かった。必然的に話が合わないことが多くなっていきました。
小学校にフィットしていないという思いは日増しに強くなり、このまま公立の中学校に進学したら自分が潰されてしまうとさえ思って、5年生の終わりの春休みに中学受験を決めたんです。
目標を定めてからの集中力はある方なので、一気に勉強。塾の先生にも恵まれて、大方の予想に反し、東京学芸大学附属小金井中学校に合格しました。
中学校は熱心な先生が多く、勉強するのがとにかく楽しかったし、勉強以外にも、バスケに、学級委員にと充実した生活を送りましたが、東京学芸大学附属高校に進学し、また転機が訪れました。高校1年生の1学期が終わった時の三者面談で担任の先生に「この成績だと国立大学はおろか、私立大学も難しいです」って言われたんです。
確かに、苦手な数学は赤点だし、理科は赤点ギリギリでした。でも、高校生活が始まっていきなり大学受験のことを言われるなんておかしいし、朝5時に起きてバスケ部の練習もやっていたし、学級委員もやっていた。理系は不得意だけど、文系の点数は良かった。
そういう優れた面を評価しないで、なんで不得意な面ばかりに目を向けるのかと……。今、ISAKに当時の私みたいな子がいたら、その先生と同じような事を私も言うと思いますけど(笑)、その時は「私はもっと違う高校生活を送りたい!」となりました。
進路に迷っていたら「海外は日本とは違う評価軸で、人をはかってくれるんじゃないかな」と、父親が言ってくれました。当時から両親は、私の良いところだけを見て褒めてくれていました。だから高校で赤点をとっても、「私は何か持っているに違いない」という、まったく根拠のない自信だけはあったんですね。それに、英語は中学校の1学期の成績表は2でしたが、そのせいで英語だけは塾に行かせてもらっていたので、かえって得意になっていました。
いまから思えば、このまま日本で生活していたら受験戦争に脱落してしまうんじゃないかという危機感からの現実逃避が大きかったと思うんですけど、それに私は大丈夫という自己肯定感がプラスされて、海外留学を目指し、経団連が運営するUnited World Colleges日本協会の門を叩いて、全額奨学金制度に合格。カナダにあるピアソン・カレッジに入学することになったんです。
優秀そうに見えた同級生も悩んでいたと知った10年後
UWCピアソン・カレッジには、世界中の90か国近くから有数な高校生が集まってきました。
当時、英語はそれなりに得意だったつもりでしたが、それは日本の中学高校でのこと。
英語が非母国語の人もいましたが、みんな予想以上によく話すんです。もともとおしゃべりなので、日本では話題を提供して笑いをとっていた自分が、友だちとの会話にすら入れない。数学が不得意とかのレベルではなく、授業が全くわからないんです。テストを受けても、どの教科もできない。ここまでわからないというのは、今まで味わったことがない初めての経験でした。
それにクラスメイトが本当に優秀なんですね。もちろん、各国で試験をパスした優秀な生徒ばかりなのですが、プラスαの才能が凄い。音楽が得意な子は、即興でジャズピアノを演奏するし、語学が得意な子は十ヶ国語を操れる。「あなたは何だったら誰にも負けないのか」ということが評価されるんですね。
私が唯一存在感を示せたのはスキートリップの日だけ。小学校からスキーはやっていたので、滑ってみせると、「りんもできるものがあるのね」って(笑)。本当に人生ではじめて、人格が揺らぐような挫折感を味わいました。日本という狭い世界で安住していた自分に思い切り冷や水を浴びせられたのです。
当時は、週1回親にコレクトコールをするのが心の支えで、辛いことや、自分が悩んでいることを毎週のように泣いて話しました。はじめは「そうは言っても、せっかく入学したのだから頑張りなさい」と言っていた親でしたが、2ヶ月経っても弱音ばかり吐いていたら、ある日、「そんなに嫌なら帰ってくれば。高校中退してもどんな挫折をしても、りんは私たちの大切な子なんだから」と言ってくれました。涙が出ましたね……。
帰れるという選択肢があるのがわかった途端、急に気持ちが楽になったんですね。ルームメイトの親戚の家に遊びに行ったり、ボーイフレンドができて、ようやく学校生活が楽しくなってきたんです、単純なものですよね(笑)。
それでも、他の生徒より秀でていると思えることは、見つけることができませんでした。将来、何で生きていけばいいんだろうとずっと悩んでいました。あまりにも辛い2年間だったので、卒業した時はやっと終わったという感じでした。
ピアソン・カレッジでの経験を受け入れ、感謝できるようになったのは卒業して10年後に世界各国からクラスメイトが集まって同窓会を開いたときでした。久しぶりにみんなと再会してみると、実は私だけではなく、それぞれが悩み、それぞれの劣等感を持っていたことを知ったんです。誰もが同じように苦労していたことを知り、ようやく素直に2年間頑張った自分を受け入れることができました。
そしていま振り返ると、私がISAKで子供たちに掲げている目標「多様性を活かす力」「問を立てる力」「困難に挑む力」はすべて、高校留学時代に身に付けたものでした。そういう意味で、早い時期に異なった文化や背景をもつ人々と交わることは大きな意味を持つと私は思っています。
構成=小林純子(フリーライター)
プロフィール
小林りん(ISAK代表理事)
1990年 東京学芸大学附属高等学校入学
1991年 同校を中退、カナダのピアソン・カレッジに入学
1993年 国際バカロレアディプロマ資格取得
1998年 東京大学経済学部卒業
1998年 モルガン・スタンレー日本法人勤務
2000年 インターネット系ベンチャー企業ラクーン取締役就任
2003年 国際協力銀行(JBIC)勤務
2005年 スタンフォード大学国際教育政策学修士号取得
2006年 国連児童基金(UNICEF)プログラムオフィサーとしてフィリピンで勤務
2008年 インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)設立準備財団を発足
2014年 インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢を開校