高倉健「二人だけの十七年」

没後5年。名優が最後に愛した女性が語る追憶の日々

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私たちは「好き」という次元を飛び越えてしまっていました。強いて例えるなら、お互いの周波数が重なっていた。“魂”が共鳴していたという言い方が最も近いでしょうか。

「ありがとう」の代わりの「バ・カ・ヤ・ロー」

〈僕の人生で一番嬉れしかったのは貴と出葦ったこと 小田剛一〉

 高倉が亡くなる2カ月前に、書き遺してくれた言葉です。

 高倉は私のことを「たかし」と呼んでいました。本名は貴と書いて「たか」と読むのですが、両親が役所に出生届を提出しに行った時、受付で「たかし」と読まれて、一時的に性別が男だったというエピソードがありました。それを知った高倉が面白がり、以来、「たかし」と呼ばれるようになったのです。

 高倉は天邪鬼な人。「ありがとう」の代わりに、はにかんだ表情での「バ・カ・ヤ・ロー」が、いつものことでした。高倉とは17年を共に過ごしましたが、〈嬉れしかった〉と素直な気持ちを表してくれた時は、正直ホッとしました。この言葉が高倉の死後も、私の背中をずっと押し続けてきてくれました。

 高倉がいなくなってからの5年間は、あっという間でした。もう物理的には存在しませんが、亡くなった後も、傍にずっと一緒にいてくれている気がします。

 日常のなかで寂しさに虚を突かれることは度々あります。変な話と思われるかもしれませんが、そんな時には、「寂しいなァ」ってサインを送ると、高倉が応えてくれることがあるんです。つい先月も、部屋の片隅に置いていたバランスボールが、空調の向きを変えていないのにふーっと転がりだして。「……?」と思って見ていたら、あっちに行ったりこっちに来たりを10回以上、繰り返したんです。高倉のサインだと思ってニコニコして見ていましたが、キリがない。「あっ、もういいです」と言うと、動きが止まりました(笑)。

 高倉健(本名・小田剛一 享年83)がこの世を去ってから、11月10日で5年を迎えた。その最期を看取った女性が、高倉健の養女である小田貴月さん(55)だ。現在は高倉プロモーションの代表取締役を務めている。

「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから」

 高倉健が生前に遺した言葉を胸に、小田さんが2人の出会い、共に過ごした17年間の思い出、旅立ちの瞬間を綴ったのが、『高倉健、その愛。』(小社刊)だ。そこでは、心を許した人にしか見せることのなかった国民的俳優の“素顔”が明かされている。

香港での出会い

 高倉と出会ったのは、1996年3月半ばのことでした。

 当時32歳だった私はフリーライターとして活動していて、女性誌の連載の取材で香港麗晶酒店(現・インターコンチネンタル香港)を訪れていました。取材後、担当者とともにホテル内のレストランに行くと、開店前なのに、すでにお客様がいらしたんです。パッと見てすぐに、「高倉健さん?」と気づきました。著名な方がいる空間に無遠慮にカメラ機材を持って入ることは憚られ、いったん外に出たのです。その後、ホテルの担当者が先方に事情を説明してくださり、私たちは視界に入らない隅の目立たないテーブルで食事をいただくことにしました。

 食後にスタッフと談笑していたところ、急に高倉が現れて。「あっ、お座りのままで」と手で制され、恐縮している私達に「今日は、お気遣いいただいて、どうもありがとうございました」と会釈をして去っていった。1分にも満たない、あっという間のことでした。

 その後、担当者の方から「お預かりしました」と、高倉の名刺が全員に配られました。海外で、しかもプライベートの場であるにも関わらず、あれほどの心遣いをされていたら一体いつ気が休まるのかしら……というのが第一印象でした。

 帰国後、香港でのお気遣いへのお礼を書いて、名刺の住所にホテル取材の掲載誌と共に送りました。すると、お返しに著書『あなたに褒められたくて』と、本人のインタビュー記事が掲載された雑誌が送られてきたのです。

「天使の訪れる朝」というタイトルの記事では、高倉が以前、旅先で買い求めたという嘆きの天使のブロンズ像について触れられていました。

〈泣いている天使だけだとなかなか幸せになれないんじゃないかと、最近になって思いましてね。今、微笑む天使を探しているんですが、なかなか出葦えませんねえ〉

 私が気になったのは、高倉健という著名人が〈幸せになれない〉と率直に語っていたことでした。微笑みの天使像1つで少しは高倉の心がほっこりするのであれば、私もそれを探すお手伝いができないかなって。そんな軽い気持ちで、仕事先の海外からポストカードを送るようになりました。

〈ただ今、微笑みの天使、捜索中です〉

〈天使の心配をして頂き、ありがとうございます〉

 一往復で約2カ月。そのような手紙のやり取りが、1年ほど続きました。特別でも何でもない、他愛ない数行のやり取りでした。

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手書きの携帯番号

 2人の関係に大きな変化が訪れたのは、1997年4月だった。その頃の小田さんは衛星放送局で、テレビ番組のプロデューサーとしての仕事を始めていた。

 3週間のイラン取材が決まり、高倉に気軽に手紙で報告しました。すると、ワープロで打ったお返事に、〈イランについて話しがあります〉と、手書きで携帯電話番号が添えられていた。ロケ出発間近になって初めて電話をしたところ、「イランは、『ゴルゴ13』という映画の撮影で行きましたが、イスラム圏ですから、女性には厳しい制約があります。充分に注意を払って仕事をしてください」と助言を受けました。

 出発の日の朝、品川のホテルパシフィック東京から成田行きのリムジンバスに乗ったときのことです。バスが動き始めてすぐに私の携帯電話に高倉から着信があり、電話に出ると、「行ってらっしゃい。後ろを見て!」と。振り返ると、ホテルの駐車スペースに停めた車の中から、高倉が敬礼のポーズをとっているのが見えました。なんでも高倉は、そのホテルの理髪店に毎日通っていたそうです。そんなことを知る由もない私は、ただただ、会釈するので精一杯でした。

 イラン滞在初日。宿泊するホテルを伝えていたため、夜になって高倉から国際電話がありました。その後はイラン各地を回っていく予定でしたので、簡単なスケジュールと宿泊先を伝えると、そこから「どんな感じですか?」と、身を案じる電話をもらうようになりました。

 ところが高倉の話は次第に、前妻の江利チエミさんに触れるなど、プライベートに踏み込んだ内容になっていきました。ちょっと待って! と戸惑いました。私が聞いてもいい内容なのだろうかと……。どうしようかと思いながらお話を聞いていると、自分の睡眠時間がどんどん削られていく。だけど、目上の方を相手に「今日はここらで終わりにしましょう」なんてことも言い出せず。「はい」「そうでしたか」を繰り返し、聞き役に徹していると、2時間くらいはあっと言う間でした。高倉は気が済むまでお話をして、「じゃあ、今日はここまで」。そして次の日に、「昨日の話の続きですが」と、電話がかかってくるんです(笑)。

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 なぜ私にそこまでの話をしてくれたのか。その理由は高倉の死後、インタビュー記事を整理している中で見つけました。1983年11月の記事にはこうありました。

〈いつか一緒に住みたいと思う女性に出会ったら、ぼくのすべてを夜通し話してもいいと思うけど……〉

「すぐに帰ってきなさい!」

 イラン取材は事前のロケハンが出来ず、想定外の連続でした。様々な対応に忙殺され、予定変更が重なり、しばらく高倉と連絡がとれない日が続きました。ようやく電話が通じたある日、ものすごい勢いで怒鳴られたんです。

「こんなに心配しているのに、どうして連絡できないんですか! 日本とは事情が違うんです、すぐに帰ってきなさい!」

 でも、高倉から依頼をされた仕事ではないですし、その命令には困りました。「今の状態で職場放棄できません」とはっきり言うと、「分かりました! 好きにしてください」という言葉の直後、バーン! という強烈な衝撃とともに電話が切られてしまって。睡眠不足で朦朧とする頭で、「なんで怒られなければならないの?」というのが正直な感想でした。

 へとへとになりながら迎えた最終日、ホテルの部屋に高倉からのFAXが届きました。

〈無事、テヘランに戻られましたか。長い間、ほんとうに長い間、自分がさがし求めてた「微笑の天使」にやっと今日、気づきました。鳥肌がたちました。何時になってもいいですから、コレクトコールを下さい〉

 複雑な気持ちでしたが、目上の人からの連絡を無視するわけにもいかず……。10日ぶりに電話をかけると、怒鳴ったことについての謝罪があり、帰国後に話の続きができないかとのことでした。

 FAXを受け、小田さんはイランからの帰国後に高倉健に初めて2人で会い、戸惑いつつも対話を重ねていったという。徐々に心の距離が縮まっていった結果、ある決断をすることになる。

 高倉から話を聞くうちに、気づいたことがありました。彼は、映画俳優「高倉健」のイメージを背負って生きる覚悟を固めながらも、一方で、人一倍繊細で血の通った人間でもある。

「僕は神様じゃない」

 高倉のこの言葉からは、ジレンマと苦悩が窺い知れました。また何より、自分のプライベートに関する出来事や報道で、大勢のスタッフと作り上げた作品に偏った色がつくことを、最も嫌っているということが分かりました。

「嬉しいね、肉」

「愛の反対は無関心」

 これは高倉の好きなマザー・テレサの言葉ですが、当時の私の心の動きを正しく言い表すなら、高倉に対して“無関心ではいられなくなってしまった”ということだと思います。好きだ、嫌いだ、という話とは違うのです。高倉が持つエネルギーは強烈で、私にとって、完全に規格外の人でした。

「この人の“伴奏者”になれたら」

 高倉に対するその決断を、皆さんに分かるように言葉にするのは難しい。「尽くす」というのとも違います。それは、私自身の人生への挑戦とも言えました。

「僕も、いろんな人と出葦いました。でも、今は独りです」
 その言葉を聞いた小田さんは、高倉健と共に過ごすことを決意したという。
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 高倉からのリクエストはただ1つ、「化粧をしないでください」ということでした。仕事場では綺麗な方々に囲まれるので、普段は出来るだけほっとしたいというのが理由だったようです。

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source : 文藝春秋 2019年12月号

genre : ニュース 芸能