「憲法改正」後藤田正晴の警告が聞こえる

保阪 正康 昭和史研究家
ニュース 政治 昭和史
もし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。「こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな」という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。安倍首相はまず先達の声に耳を傾けるべきなのです。

後藤田正晴の戦争観

「必ずや成し遂げていく決意だ。新しい体制で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく」

 9月11日、第4次安倍改造内閣発足後初の記者会見で、安倍晋三首相は「憲法改正」への意欲をこう強調しました。

 安倍首相は「2020年の改正憲法施行」を、繰り返し主張しています。しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に「改正」を実現させたい。首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます。

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所信表明演説を行う安倍首相

 そういった首相の姿勢を見るたびに、私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。「こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな」という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら「改憲は時期尚早」と首相を窘(たしな)めたのではないかと私は思うのです。

 ところが今の自民党には、後藤田のような「重石」はいなくなってしまったようです。私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です。しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです。

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後藤田氏

 いうまでもなく、後藤田正晴は「護憲」の政治家でした。

 警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めました。93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられました。旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています。

 平成の初めの頃、私はそうした彼の政治的姿勢に関心を持ち、その評伝を書きたいと思い、議員会館に交渉に行きました。

 最初は「評伝なんて書いて欲しくない」と断られましたが、雑談の際にたまたま彼が身を置いていた戦時下の台湾司令部に話が及んだところ、私がこの司令部について詳細に知っていることに、彼は興味を持ったらしく、取材に応じることになりました。

 それから1年半、月に2、3回、議員会館の部屋、自宅、個人事務所を訪ねて、話を聞き、平成5年に『後藤田正晴――異色官僚政治家の軌跡』(文藝春秋)として刊行しました。その本に私は彼の「戦争観」についてこう書きました。

〈後藤田には後藤田なりの戦争観があった。戦争のあの愚劣さは、決してくり返してはならない、もう二度とあのような体験はしたくない、との覚悟を固めていた。後藤田と会話を交わすと、そうした覚悟がはっきりみてとれる〉

 取材中、彼は「わしの眼の黒いうちは憲法改正は許さない」との信念を語り、「軍事が政治のコントロールを踏み外して暴走を続けるなら、とんでもない事態になる」と何度も口にしました。

 実際、中曽根康弘内閣の官房長官時代、後藤田は内閣の軍事への傾斜を窘めるスタンスをとり、その種の発言を続けました。

 後藤田は昭和14年、東京帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格し内務省に入省しています。1年ほど身を置いたのちに徴用され、昭和15年4月、台湾歩兵第2連隊に2等兵として入隊。その後、陸軍経理学校で学び、主計将校、そして台湾司令部に将校として身を置きました。太平洋戦争の期間にはこの司令部に在籍していて、司令官に仕えていました。

 その頃の記憶を質している時に、後藤田は、ふとこんな言葉を漏らしました。

「戦争末期になると、中国に駐屯していた部隊が台湾を経て南方に投入されていった。中国にいた部隊はどうしてあれほど荒っぽくなるのかと内心で不思議に思っていたよ」

 さらにその「荒っぽさ」を後藤田は具体的に語りました。彼によれば台湾では中国にいた部隊による暴行事件も起こったそうです。

 戦争は人を狂わせる――後藤田はその想いを台湾で強くしたのではないでしょうか。彼が護憲の立場を貫いたのには、「もうあんな戦争は二度とゴメンだ」という戦場に赴いた世代の「共通の感情」が土台にあったからと、その時実感しました。

地方局育ちと警保局育ち

 後藤田はよく「私は地方局畑育ちだから」と言いました。彼に限らず旧内務省の出身者はよくそういう言い方をします。私は、最初はその意味がわかりませんでしたが、次第に納得することができました。旧内務省出身者には「地方局育ち」と「警保局育ち」がいるのです。

 地方局育ちは当時のシステムでは、最終的に官選の知事になります。つまり国民の民生全般に目を向ける官僚として育っていく。一方、警保局育ちは特別高等警察(特高)を動かし、国民生活を治安維持という観点で見ていく。治安維持法を基に、国民を弾圧することが主要な仕事となります。その結果、警保局育ちは国民の思想や生活の監視、取り締まりを、すぐに口にするようになるのです。戦後の自民党の極右グループで、「治安維持」を主張し、思想弾圧を考えたのは、大体が内務省警保局育ちの連中でした。

「自分は思想弾圧しない」という意味が「地方局畑育ち」という言葉にはある。その“誇り”のようなものを垣間見たのが、原稿用紙1000枚近い彼の評伝を書き終えた時でした。

 後藤田から「事前に読ませてほしい」と言われ、私はその胸中を描写した部分は諒解も必要だったので、見せることにしました。しかし、それ以外の部分は見せませんでした。後藤田は、新聞はともかく、雑誌や書籍などの自らに関わる原稿は事前にチェックしているらしく、見せてもらうのは当然と考えている節がありました。しかし、私はその要求を「それは検閲ですよ」と言って、全面的には受け入れなかったのです。

 特高の弾圧を連想させる「検閲」という言葉を聞いた時の後藤田のびっくりした様子と、すぐに「そうか」と引き下がった時の顔が忘れられません。「俺は特高の親玉のようなことはしたくない」という意識が彼には強くあったのです。

僕はこんなにやわな人間ではない!

 この話には続きがあります。単行本の見本が刷り上がった日の夕方、議員会館に本を届けました。すると翌日の早朝、午前5時ごろに後藤田から電話が入ったのです。電話口の彼は大変な激高ぶりでした。

「君、これは何だ。文学的に書きすぎている。僕はこんなにやわな人間ではない!」

 そして、いくつか書き直してくれというのです。私は「先生は取材に応じて書く側に任せた以上、どのような本になろうともそれは仕方のないことです」と、平行線のやりとりを続けました。カミソリと呼ばれた後藤田は自らの強いイメージがこの本によって、崩れるのを恐れているように感じました。

 確かに、評伝の冒頭は「寂として物音ひとつしない」という書き出しで、徳島の剣山地の描写から始まります。ここで父の遺体を街の病院から自宅に運ぶ様子を7歳の少年がどのように見守ったか、その心情を解き明かしていました。そういった表現を、後藤田は「文学的にすぎる」というのです。しばらく同じようなやりとりが続いたあと、気まずい雰囲気で電話は切れ、私は後藤田との関係もこれで最後かと思いました。

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 その1週間後に後藤田のパーティーが開かれました。私は出席の返事をしていたので、気が重かったものの、顔だけはだそうと思い向かいました。ところが会場に入ると夫人が近づいてきて「保阪さん、本当にありがとう。血も涙もないと思われている後藤田を人間的に書いていただいて」と何度も頭を下げるのです。すると、今度は後藤田本人が近づいてきて、「やあ」といつものポーズをとったのです。まるで何事もなかったかのように。彼は夫人の説得を受け入れたようでした。

 それ以来、後藤田と私は取材の対象者という枠を超え、互いに胸襟を開いて話すようになりました。

 それからは、私が特に予定もなく事務所を訪ねても、後藤田は時間を割いてくれるようになりました。後藤田も歴史好きなところがあり、2人で歴史談義を交わしたこともありました。そんな時によく私は彼の「本音」を聞かされました。ある時は、苦笑しながらこう明かしたのです。

「今日、国会を歩いていると土井たか子さんら社会党の女性議員数人とすれ違ったよ。そしたら彼女たち、わしに何と言ったと思う? 『先生、我が党の委員長になってくれませんか。先生は護憲派なんだから』ってさ」

 もちろん、委員長になる気はなさそうでしたが、「護憲派」と言われ、妙に嬉しい顔をしていました。後藤田には「俺の時代には戦争はさせない。そのためにはとにかくさしあたってこの憲法を守るんだ」という強い気概がありました。

ライオンではなくウサギの戦法を

 太平洋戦争中、大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させたことで名を馳せ、戦後は自衛隊統幕情報室長を務めた堀栄三という人がいます。彼は大正2年生まれで後藤田の1つ上です。私は堀とも非常に親しくお付き合いをさせてもらいました。後藤田と同じく私が最も尊敬する人物の1人です。

 ある時、私の出版記念パーティーに後藤田が来て挨拶をしました。堀も来ており、2人はしばらく話し込んでいました。戦後、後藤田が自治庁長官官房長を務めていた頃、堀は初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官でした。ある会議で一緒になって以来の旧知の間柄だそうです。

 堀に、ある時、憲法について聞いたことがあります。彼の答えはこうでした。

「僕は軍人だから憲法改正と言われたら、改正することに反対しない。しかし、戦前の軍隊のようになるのでは意味がない」

 もし日本が再軍備をするのならば、先の戦争について猛勉強しなければならない。もう一度同じことを繰り返さないよう徹底的に検証せずして再軍備はありえない。

 むしろ憲法改正より重要なことがある。日本が国際社会で生きぬくために、ライオンではなくウサギの戦法をとるべきだと言いました。巨大な牙や爪にたよるのではなく、情報収集にたけた耳を武器とせよ。つねに耳を研ぎ澄ませ、かすかな情報もおろそかにしない。そしてその情報を正確に分析し、事態に対応する。

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source : 文藝春秋 2019年12月号

genre : ニュース 政治 昭和史