ジャーナリスト・本田靖春(ほんだやすはる)(1933―2004)は、読売新聞を昭和46(1971)年に退社すると翌年から「文藝春秋」で「現代家系論」を連載。その後も「誘拐」をはじめ、緻密な取材に基づく傑作を次々と発表した。読売社会部の後輩にあたるノンフィクション作家の清武英利(きよたけひでとし)氏が、先輩への想いを綴る。
〈社会部の記者がスターであり英雄である時代があった〉
『不当逮捕』の単行本に巻かれた帯は、そんな言葉から始まっている。その推薦文の筆を執ったのは、本田靖春の馬券仲間だった山口瞳である。だが、私が読売新聞社に入社した1975年には、奔放不羈(ふき)なスター記者の時代はとうに過ぎ去っていた。本田がいなくなっていた読売で、この年に社会部の落日を告げる社内政変があり、やがて「ドン」と呼ばれる渡邉恒雄が、編集局次長兼政治部長の要職に昇進している。
本田はその4年前に、読売に見切りをつけて飛び出していた。当時37歳。それからもずっと彼はおんぼろアパート暮らしで、「由緒正しい貧乏人」を自称するが、さばさばした気分で、ただの一瞬も自分の取った行動を悔いたことがなかった、と書いている。繁栄の陰で公害問題が深刻化し、新聞社も成長と安定、そして管理の時代を迎えていた。
彼が消えた社会部には、本田が入社8年目に遂げた「『黄色い血』追放キャンペーン」の伝説が残っていた。私は社史を読んで、彼が売血依存の厚生行政を叩きのめし、献血制度作りを求めたことを知る。それが調査報道を選んだ私の道標となった。

本田が愛した無頼の気風は、むしろ本社の統制の及ばない地方支局に残っていた。私が赴任した青森支局の先輩たちは原稿を出すと花札や軍人将棋に興じ、デスクは湯呑で酒を飲みながら原稿に朱を入れ、声を掛けた。「取材した双方の意見が食い違うときは、弱い側に味方しろ」
その言葉は、何事にも懐疑的だった私にも熱く響いた。大きな石油ストーブが燃える深夜の支局や昏(くら)い酒場の隅で、デスクや先輩は、本田とその上司の神話を語った。あるときは、従軍記者の伝聞だったり、マッカーサーの日本進駐を取材して「自由」の素晴らしさを体感した記者の話だったり、社会部の“酔いどれ記者”の武勇伝だったりした。
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source : 文藝春秋 2018年1月号

