膨大な知識と鋭い筆先。旺盛な冒険心と細やかな心遣い。開高健(かいこうたけし)(1930―1989)は昭和を代表する作家にして、誰からも愛された器量人だった。世界各地の大魚を求めて旅を繰り返し、一連の「オーパ!」シリーズを書き残したが、辻調理師専門学校日本料理専任教授の谷口博之(たにぐちひろゆき)氏はその旅の同行料理人として長年行動を共にした。開高は谷口氏を「教授」と呼び、その料理の腕を賞賛してやまなかった。
晩年のことですけど、先生から度々お電話をいただきました。とぼけた口調で「よれよれの開高です」とかかってくるから、うちの子どもたちは「よれよれさんから電話だよ」と言って私に取り次ぐんです。慌てて受話器をつかむと、なんてことはない。「今日のお昼、なに食べた?」とか、じつに他愛のない会話。執筆中にふと寂しさを覚えるのか、よくそんな電話がかかってきましたね。
先生との出会いは25年ほど前にさかのぼります。旅に同行するのは当初一回限りの予定でしたが、先生の「馬は乗り替えない」のひと言で、最後まで伴走することになりました。2人でいるときはやはり料理に関する話が多かったですね。古今東西のあらゆる食材に通じているのはもちろん、想像力が本当にたくましくて……。たとえば、初めてアラスカのベーリング海にオヒョウを釣りに行ったとき、オヒョウは大柄で動きが鈍く、たえず海の底でじっとしているから「身は引き締まっていないはずや。大味やから寿司、刺身はあかんやろ」って。実際、釣り上げて調理してみたらその通りなんです。水分が多くてすぐに歯ごたえがなくなる。感想は正直で、「こら、あかんな」という具合でした。
先生の好みは、はっきりしてました。好奇心が旺盛でなんでも口に入れる。好きになったらそればかり、飽きるまで食べるのが開高流です。2度目のアラスカ、キーナイ河へキング・サーモンを釣りに行ったときも、ダンジネスという未知なる蟹を見つけて、気に入ったのかひとりで7杯も。「うまい!」と言ったきり、黙々と殻を積み上げていました。こんなとき、先生の頭のなかでは「言葉との格闘」が繰り広げられていたのではないでしょうか。後にこういったシーンが、想像もつかないような素晴らしい描写に変わるんです。

作家としての一面は旅の随所で見られました。ふとしたときに先生ならではの格言が飛び出す。なかでも印象深いのは、パーティー用の料理を準備しているときに厨房をのぞいてボソっと仰った「心に通ずる道は胃を通る」という言葉。海外では現地の方を招いてパーティーを開くことも多く、和食が彼らに通じるのかはじめは心配でした。そんな不安を取り除こうとしてくれたのでしょう。あえて意味は訊きませんでしたが、「心を尽くした料理は国境を越える」あるいは「美味しい料理を分かちあえば互いの心が近くなる」と解釈しています。いわば、料理人としての大切な心構えですね。
改めて考えると、先生の言葉にはつねに優しさがありました。旅はどこに行っても「1カ月で8キロ痩せる」くらい苛酷でしたが、人間関係がギスギスしたことはありません。宿に着くとまず先生が壁に「同甘同苦」と書いた大きな紙を貼るんです。「楽しいことも苦しいことも皆で共有する」。そういう気遣いを自ら率先して行うから、私たちは本当の家族のように打ち解けることができました。
他にも、こんな会話をしたのを憶えています。針の先にイクラをつけて、川でサーモンを釣っていたときのこと。素人の私が「先生、残酷ですね。サケって自分の子を食べるんですね」と言うと、「それは違う。サケは流されている子を安全な川べりに連れて行こうとしてくわえるの。その心理を人間が逆に利用してるんや。人間の方こそ矛盾の束やで」って。そういった深い意味の込められた言葉を、いつもさらりと言うんです。
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source : 文藝春秋 2006年2月号

