親子のかたちは時代を映す。昭和59年から40年続いた長寿連載、一号限りの豪華リバイバル
私には2人の母がいます。1人は、私を産んでくれた母、玉城ヨシ。そしてもう一人、2歳から10歳まで私を育ててくれた母、知花カツさんです。生みの母のことは「アンマー」、育ての母のことは「おっかあ」と呼んでいました。
私の父は沖縄の米軍基地に駐留していたアメリカ海兵で、私がアンマーのおなかの中にいる時に帰還命令を受けた。アンマーも当初は渡米するつもりだったようですが、慣れない土地での子育ての苦労を考え、父に別れを告げたといいます。
私が生まれた1950年代後半の沖縄は米軍基地の建設ラッシュで、基地の近くでドルを稼ぐ仕事が“えーきんちゅ(お金持ち)”になれると言われた時代。母も辺野古近くの米軍向け飲食店の従業員寮で、料理や洗濯といった賄いの仕事をすることになりました。住み込みの仕事ですから、私を連れていくことはできません。そこで、元々知り合いだった20歳近く年上のおっかあに私を預けることになったのです。

与那城のおっかあの家には兄や姉がいて、私も知花家の一員として、何の違和感もなく暮らしていました。おっかあは、まるで太陽か仏様のような温かく優しい人。子どもの頃の私は超がつくほどのうーまくー(やんちゃ坊主)でしたが、おっかあには優しく窘められることはあっても、怒鳴られたりしたことは一度もありませんでした。
アメリカの血が入っているというだけでいじめに遭った時には、おっかあは島言葉で、「かーぎやかーどぅやる(容姿は皮でしかない)」「とぅーぬいーびや、ゆぬたきやねーらん(10本の指は、同じ太さや長さじゃない)」と教えてくれました。見た目なんて皮1枚の違いで、中身はみんな一緒。指の長さが違うように、みんな違っていて当たり前なんだよ、と。その後この言葉にどれだけ救われたか分かりません。
アンマーも月に一度は会いに来てくれていたので、さみしさはありませんでした。会いに来るのは決まって給料日のあとで、私を地元のレストランに連れて行って「何でも好きなものを注文しなさい」と言ってくれる。いくら給料日といっても、私はCランチ以上の高いランチを頼む勇気はありませんでした。でもそのCランチが大好きで、ワンプレートにとんかつとキャベツのサラダ、目玉焼きとウインナー、そこにケチャップをたっぷりかけて食べるのが楽しみだったのです。
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