千葉聡『「科学的に正しい」の罠』

第23回

村上 靖彦 精神分析学・現象学者
エンタメ サイエンス 読書

価値観から自由な科学的知識はない

 著者の専門は進化生物学と生態学である。拙著『客観性の落とし穴』と書名が似ていることもあって手に取ったところ、方向性は異なるのだが大いに面白く勉強になった。

千葉聡『「科学的に正しい」の罠』(SB新書)1100円(税込)

 スターリン主導の国家政策によって疑似科学が科学的真理として称揚されたルイセンコ(ソ連の科学者)、科学が社会的価値を決めようとしてついにはナチスドイツにいたった優生学の自然主義的誤謬、エビデンスにもとづいた研究が推論過程での思い込みから誤りにいたった左利き短命説(もちろん早死などしない)、キリスト教の創造論にもとづいて進化論を否定するインテリジェント・デザイン論という疑似科学、といった科学の正しさが揺らぐ事例が解きほぐされる。科学のなかにイデオロギーが関与する場合、科学の手続きに問題がある場合、科学を盲信する場合というように科学の正しさはさまざまな理由で揺らいでいく。

 拙著は科学にもとづいた客観科学の重要性を認めたうえで過度な客観性依存で個別経験が消されることの弊害を論じた。本書は科学的な知識が主張する正しさが、実はあやういものだと論じる。

 価値観から自由な科学的知識は存在しない。価値観との関係を自覚していく必要がある。これからは科学にかかわる判断に、さまざまな価値観をもつ市民そして利害の当事者の市民の参加が重要になる(医学ではPPIという名前で患者・市民が研究に参画する方向性が生まれている)。誰かが力を持つトップダウンの意思決定ではなく、ネットワーク型の意思決定がのぞましい。

 著者はルウォンティンとグールドの言葉を引用する。「遺伝的な基盤がわからぬまま、相関と因果関係を混同して乏しい証拠でヒトの行動を適応と断定すると、社会的不平等や差別を自然なものとして正当化する危険性がある」のだ(259頁)。そして「研究者は科学的事実だけでなく、自身の価値観を明示し、社会的責任を自覚した説明をすべき」なのだという(同)。

村上靖彦氏

 著者は勤務する大学で中期計画にかかわる評価業務で疲弊したことにも触れている。過剰なKPI(重要業績評価指数)で数値目標を達成することを国立大学は求められる。実は僕も同じ業務に従事したことが拙著を執筆する動機の一つだった。それゆえ密かに両書は、乱立する数値目標を追求することで科学研究が発展すると錯覚している現代の大学行政への批判意識を共有するのだ。

「『今』と『未来』を見通す科学本」は村上靖彦、橳島次郎、松田素子、佐倉統の4氏が交代で執筆します。

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source : 文藝春秋 2026年2月号

genre : エンタメ サイエンス 読書