11月23日に期限を迎えていたGSOMIA失効は、寸前に回避された。強硬な態度を貫いていた青瓦台(大統領府)内部では一体何が起こっていたのか。取材を進めると、「青瓦台の高官が事態をこじらせた」ということが分かってきた。
電話での協議を毎日のように
11月23日午前零時のGSOMIA失効まであと2週間という時点で、事態が好転する気配はなかった。唯一、つながっていたのは外務省の秋葉剛男事務次官と韓国外交部の趙世暎第1次官のラインだ。
この頃、両政府には、北村滋国家安全保障局長と韓国大統領府の鄭義溶国家安保室長のラインによる調整を模索する案もあった。しかし、両政府から「お互いに強硬意見が目立つ首相官邸と韓国大統領府との交渉では、まとまるものもまとまらない」という声もあり、秋葉・趙両氏による調整に落ち着いたという。
趙氏は日本語研修を受けたジャパンスクールの外交官だが、経済分野の担当が長く、決して主流派とは言えない。ただ、日本勤務時代に日米安保条約について個人的に勉強するなど、安全保障に造詣が深かった。東北アジア局長時代の2011年12月に京都で行われた日韓首脳会談では、日本が慰安婦問題で譲歩すれば、韓国はGSOMIAや物品役務相互支援協定(ACSA)の締結に応じても良いとする包括案をまとめようとしたこともある。翌12年6月、締結目前だった日韓GSOMIAが、当時の与党の反対で頓挫したことで、いったん外交部を去った。
強硬派の金鉉宗氏
その趙氏が復活したのは、対日強硬派として知られる韓国大統領府の金鉉宗国家安保室第2次長との縁があったからだ。趙氏は日韓の経済関係を担当していた課長時代、日韓自由貿易協定(FTA)の交渉に参加した。この交渉を指揮していたのが当時、通商交渉本部長だった金鉉宗氏だったのだ。
趙氏が秋葉氏と接触したのも、もちろん金鉉宗氏の指示があったからだ。ただ、それはあくまでも、「日本が輸出管理規制措置を撤回すれば、韓国はGSOMIA破棄を再考してもよい」という文在寅政権の原則論が通じなくなる事態に備えたものだった。
2人は精力的に動いた。11月10日過ぎから2週間足らずの間、ほぼ毎日のように電話で協議した。趙氏は少なくとも2回以上、極秘で訪日。膝詰めで談判に及んだ。秋葉氏も輸出管理規制措置の撤回に執念を燃やす韓国側の姿勢に配慮し、経済産業省や永田町の関係者にも根回しを続けたという。
その結果、2人がまとめた案が、日韓両政府から22日夕刻に発表された。①韓国はGSOMIAの破棄通告を停止する、②日韓は課長級による輸出管理規制措置を巡る協議を局長級に格上げする、③輸出措置の撤廃に向けたロードマップをまとめる、というものだ。
大統領府vs外交部
協議のなかで、趙氏は輸出措置を巡る協議の期限を設けることも望んだ。協議をだらだらと続ければ、韓国内から「どうせ日本は措置を撤廃する考えがないのだ」という不満の声が上がりかねないからだ。ただ、日本側は、期限を設けることには反対した。期限を設ければ、「撤廃ありきの協議」になりかねない。それでは、輸出措置を決めた経済産業省の責任問題が浮上するし、安倍晋三首相の政治責任も問われかねない。
こうしたギリギリの折衝で生まれたのがロードマップ案だった。
だが、ここで2人に待ったをかけたのが、韓国大統領府だった。
文大統領
韓国外交部は11月19日、1度この案を文在寅大統領に報告した。文氏の返答は「ロードマップを作るのは構わないが、実際に政策として採用するかどうかはわからない」というものだった。韓国外交部はこの時点で、ロードマップ案を正式に日本に提案できずにいた。
一方、韓国大統領府は揺れていた。趙氏の提案に待ったをかけながら、そもそも日本との交渉を彼に命じたのがその証左だった。
GSOMIA破棄で突っ走っていた文在寅政権に変化が見え始めたのは10月3日。ソウル中心部・光化門で開かれた抗議集会だった。文大統領の側近、曺国法相(当時)を巡る疑惑が噴出。40万人以上の市民が「曺国辞任、文在寅下野」を叫んだ。
文氏は10月7日、大統領府での幹部会で「多様な国民の声を厳粛に聞いた」と発言。1週間後の14日、曺国氏は法相を辞任した。これを契機に、韓国政府内に対日強硬一辺倒を見直す機運が芽生えた。
曺国氏はSNSに徴用工判決を否定する人間は親日派だと書き込むなど、自らと抗日派を重ね合わせるような動きを示していた。韓国の政界関係筋によれば、政府与党内で「曺国は疑惑追及の声を避けるため、自分を批判する人間は親日派だというレッテルを貼ろうとしていたのではないか」という声が上がった。
このころ、大統領府には「GSOMIA破棄は米韓関係の決定的な悪化を招く」という報告書が、外交部や国防部、国家情報院などから相次いで上がっていた。実際、米国は様々なルートで韓国に対し、破棄の再考を求めていた。南北関係が破綻の危機に瀕し、韓国の来年の経済成長率が2%を切る見通しになるなか、米韓関係の悪化まで招けば、文在寅政権は絶体絶命の窮地に陥る。
電撃会談は裏目に出た
こうした状況が、「ネロナンブル(自分がやればロマンスだが、他人がやれば不倫という意味。独善主義を表す言葉)」と呼ばれた文政権の行動原理に変化をもたらした。
先陣を切ったのが10月22日から24日まで訪日した李洛淵首相だった。李首相は24日、首相官邸で安倍首相と会談。当初、10分の予定だった会談時間は、日本が不快に思う発言を徹底的に避けた李首相の努力もあり、21分間に延びた。
これに気を良くした韓国は11月4日、バンコク郊外で勝負に出た。東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓3カ国による首脳会議の控室にいた文在寅大統領が、遅れて入ってきた安倍首相をソファに誘った。事前の調整のない電撃的な対話だった。お互い英語の通訳しかいなかったため、11分間の対話中、実際に両首脳が語った時間はわずか3分ほど。文氏は日韓間の懸案問題を話し合う高官級協議の開催を提案したが、安倍氏は「日韓請求権協定を守って欲しい」と2度繰り返したという。
日韓関係筋によれば、この時点で韓国は日本が高官級協議を受け入れれば、GSOMIA延長を宣言する腹づもりだった。韓国はそれまで、「日本が輸出管理規制措置を撤回すれば、GSOMIA延長を検討できる」という立場だった。高官級協議が始まれば、輸出措置の撤回に向けた動きが始まったとして、「大局的に考えて、GSOMIAを延長する」というシナリオを考えていたという。
だが、このシナリオはあっけなくつぶれた。日本側が11分の対話について積極的に説明しようとせず、韓国側が「良い雰囲気」をアピールしようとして公開した対話の写真について、「事前に了解を得なかった」という不満も漏らしたからだ。
日本政府関係者の1人は当時の雰囲気について「首相官邸は文在寅を完全に見限っている。GSOMIAを破棄するなら破棄すれば良いという構えだ」と語っていた。事実、首相官邸は輸出規制措置を発表した7月ごろから、内閣情報調査室などの情報担当部門への指示を変えたという。
情報関係筋の1人によれば、従来は韓国との交渉を前提に、「韓国側の妥協点を探れ」といった指示が多かったが、7月以降は「文在寅政権が北朝鮮や中国と親密な関係であるという情報を探れ」といったオーダーが激増した。
同筋によれば、6月の主要20カ国・地域(G20)首脳会議の際、韓国が日韓首脳会談を開けない責任を日本側に押しつけるため、徴用工判決問題を巡る交渉内容を一方的に公表したことで、「安倍首相の堪忍袋の緒が切れた」(官邸周辺)。日本は7月、輸出管理規制措置の強化を発表し、対決路線に突き進んだ。安倍首相はこの頃、周囲に「行くところまで行くしかない」と語っていたという。
日本側の「救命ブイを投げない」(日韓関係筋)冷たい反応に、逆に大統領府の対日強硬派が勢いを盛り返した。大統領府内で開かれた会議で、GSOMIA破棄を主導した金鉉宗国家安保室第2次長や盧英敏大統領秘書室長らは「日本は対話に応じる気がない」「日本は文在寅政権を助ける気はなく、むしろコーナーに追い詰めようとしている」と主張したという。
破棄を言い出した張本人
文氏は11月10日、大統領府に招いた与野5党代表に対し、「日本の経済侵奪やGSOMIA問題については超党派的に協力する必要がある」と語った。この時点で、韓国大統領府の姿勢は、8月当時の強硬路線に逆戻りしていた。
文氏の強硬な姿勢の背景には、「米国も韓国の姿勢を理解してくれるかもしれない」という淡い期待もあった。韓国大統領府は20日まで、日本に対してロードマップ案を基本とした最終調整を留保する一方、強硬論を主導してきた文氏の側近である金鉉宗氏を米国に送った。
金氏は米国生活が長く、「韓国語よりも英語が得意」と言われ、情を挟まない冷徹な姿勢で知られる韓国外交の実質的な統括者だ。
この金鉉宗氏がGSOMIA破棄を言い出した張本人だった。8月の韓国国家安全保障会議(NSC)では、曺国氏を巡るスキャンダル隠しに躍起になる盧英敏大統領秘書室長とともに、破棄を強硬に主張して、ほかのスタッフを大いに驚かせた。当日までGSOMIA延長だと信じ切っていた外交部や国防部、国家情報院はあっけにとられたという。
河野外相(当時)
GSOMIAに関して、「韓国政府内が混乱している」という噂が流れると、「8月の外相会談で、河野太郎外相(当時)が冷淡な態度を取ったことを契機に、韓国政府は一致してGSOMIA破棄を決めていた」という逆情報を流したほどだった。
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source : 文藝春秋 2020年1月号