「野球は『頭』でやるものだ」という野村克也の野球哲学は、いかにして作られていったのか。選手としても、監督としても、王・長嶋ほどの輝きはなかった野村が“球界最強脳”と呼ばれる由縁を、記者として担当した筆者が解き明かす。
評論で批判を一掃
野球人に限らずたくさんの人を楽しませ、生涯で150冊を超える著書を出した野村克也が、野球界からもメディアからもそっぽを向かれた時期があった。2001年、妻・沙知代が脱税容疑で逮捕され、阪神の監督を辞任した後のことだ。マスコミの取材攻勢に野村は自宅に引きこもった。それまでシーズンオフはひっきりなしにあった企業や自治体からの講演のオファーも途絶えた。
そうした日陰生活を送っていた野村が再びメディアに戻ってきたのが02年10月、巨人―西武の日本シリーズである。引っ張りだしたのは私のサンケイスポーツの1つ先輩、宮川達也で、阪神監督就任時に選手に配った教本と同じ「ノムラの考え」というタイトルをつけ、新聞1ページを丸々使う(だいたい1500〜2000字。普通の評論家の原稿は多くて700字程)大評論がスタートしたのだ。
宮川はバッシングを受けている時期にも頻繁に野村邸に通い、家族以外では数少ない話し相手になった。宮川は07年に42歳で亡くなったため、2人がその時どんな会話をしていたのか、今は知る由もないが、次にメディアに復帰する時は1人の野球人に戻って、多くの選手が参考にできる中身にしたい。野村も妻の不祥事と阪神で3年連続最下位に終わったことで、2度と自分はプロ球団の監督に呼ばれることもないと思っていただけに、ヤクルト、阪神では外部には隠した持論も惜しまずに披露する――2人の間でそう結論に至ったのではないか。
それまでも「生涯一捕手(作家の草柳大蔵氏から贈られた)」「敵は我に在り」「弱者の兵法」など数々の人生訓を披露し、多数の著書を出していたが、02年の日本シリーズの評論は、それまでのものとは明確に違った。「です・ます」調の敬体だった文章が、「だ・である」といった常体に変わり、人生訓や名言はあくまでも新聞の見出しになるための修飾として使い、内容はできる限りプレーに特化した。狭い記者席に体を窄めるようにして座り、配球や選手の一挙手一投足を見逃さなかった。
その紙面を選手、コーチたちが読み、野村が復活したという話題は瞬く間に球界全体に広がった。巨人の4連勝で終わったことでたった4回の掲載となったが、新聞社には読者から好意的な電話が多くかかり、他のメディアもスキャンダラスな報道はしなくなった。野村はもっとも得意とする評論で、阪神時代の低成績や家族への批判を一掃したのだった。
宮川が次長に上がったことで、翌03年春から私が担当になった。私も90〜91年、野村ヤクルトの1、2年目の番記者経験があるが、番記者と評論家担当記者とでは厳しさは別物だった。「俺の担当をやる以上、おまえも野球博士であれ」と配球の基本や投手の癖の見方まで徹底的に叩き込まれる。間違えれば選手と同じように翌日はお説教だ。残りの人生を評論家として食べていくと覚悟を決めた野村は、書き手に自分の分身を求めた。
阪神監督時代
原点投球
「さぁ、始まりました。ピッチャー上原、バッターは赤星、おまえがキャッチャーなら、初球なにから入る」
私が担当した3年間、試合が始まる前によくその質問をされた。「上原だから得意球のフォーク」、そんな回答では「次はどうするんや」とすぐさま依かれる。「内角に真っ直ぐ」と言えば「狙われたらどうする」、「一球様子を見る」には「ボール先行で苦しくなるだけやろ」とその後は不機嫌になっていく。
「原点です」
それが答え。野村が「原点投球」と名付けた外角低めのストレートだけが正解だ。真っ直ぐでもっとも危険の少ないゾーンであり、野村曰く「困った時の原点」である。「先発投手はきょうの自分の原点能力がどれくらいか試すべき」。そして現役時代の野村は、投手のその日の原点能力を確認して、事前に準備したリードを組み立て直したそうだ。
南海で山内新一、福士敬章(松原明夫)といった技巧派をリードし、ヤクルト、阪神でも「野村再生工場」と呼ばれたことから、「野村理論=変化球でかわしていく」と誤解を招くことも多かったが、野村が理想とする配球はストレートを基に成り立っている。変化球が何球も続くと、スコアブックの隅にマークをつけながら「どんどん泥沼に嵌まっていくぞ、どうする気だ」と顔を歪める。不思議なもので150キロを投げられる投手の方が変化球を多く使い、山本昌のような130キロ台の投手の方がストレートの割合が多かった。
外角低めのストレートが投球の基本というのは、ヤクルト時代から言っていたが、「原点」という言葉を頻繁に口に出し始めたのは阪神の監督に就任してからである。ヤクルトには川崎憲次郎、伊藤智仁、岡林洋一、西村龍次などコントロールがいい投手が多かったが、阪神には少なかった。とくに育成に苦労したのが井川慶。井川には「ダーツの時には腕が前に来るやろ。的当て投法をやってみろ」と指導し、その頃、すでに日本で主流だった「リリースポイントは高い場所」というメジャー流のフォームではなく、前でボールを離す旧時代の投法をアドバイスした。
井川は野村が辞任した2年後の3年、最多勝や沢村賞を獲得する。だがネット裏から活躍する井川を見ながらも、「相変わらず組み立てが難しいピッチャーだな」と厳しかった。勝てる投手になってもまだ「原点投球」が出来ていないと見ていたのだ。井川は07年にポスティング制度でヤンキースに移籍するが、米国ではまともに起用されなかった。
――アメリカには『コントロールのないピッチャーはピッチャーとは言えない』との格言があるらしいな。
参考になることはあまりないと、MLBに興味を示さなかった野村だが、好んで使っていたこの言葉が、私には井川の不遇さと重なる。野村の口煩い指導がもう数年続いていれば井川の野球人生も変わっていたのでは、そう思ってしまう。
ギャンブルスタート
「この前少年野球を見たら、黒板にギャンブルスタートと書いてあったんだよ。俺が作った語句が子供にまで広まったと思うと嬉しくなったよ」
楽天監督に就任する前の05年の頃、満面に笑みを浮かべていたのを思い出す。ギャンブルスタートとは無死、または1死で3塁に走者がいる場面で、通常は「打球が転がったのを確認してスタート」なのを「バットに当たった瞬間にゴー」とするなど、アウトになるリスク(この場合はライナーによる併殺)をベンチが被って、スタートの指示を出すことだ。
ギャンブルスタートの必要性を考えるきっかけは92年の日本シリーズ第7戦。同点で迎えた7回1死満塁で、杉浦享の1、2塁間のゴロを、西武の2塁手辻発彦は体勢を崩しながら本塁へ送球した。悠々セーフだと思ったのに、3塁走者の広澤克己はフォースアウト。ベンチに戻ってきた広澤に「なにぼーっとしてんだ」と叱った。だが広澤が「ライナーに気を付けていました」と答えたことに、「こういう緊迫した状況で、選手に一瞬で判断させるのは難しいんだな」と反省し、以降どうしても点が欲しい時は「ライナーだったらゲッツーでも構わない」とギャンブルスタートのサインを出した。
もっともそれ以前からもアウトになる危険を顧みることなく、1点を取る野球を目指していた。盗塁を重視し、「A投手は1球しか牽制球を投げない」「B投手は最高で4球まで投げる」などスコアラーに各投手の傾向を調べさせ、投球動作に入る前からスタートを切らせた。
ヤクルトではこんな秘密練習もした。阪神の正捕手木戸克彦はイップスなのか、山なりのボールでしか投手に返球できない。その間に3塁走者が本盗できないかと、俊足の飯田哲也を使って何度も練習で試したのだ。しかしいくらやっても捕手↓投手↓捕手とボールが渡ってアウトになる。結局、この奇襲が実戦で披露されることはなかったが……。
ちなみに鈍足だった野村だが、現役時代117回盗塁し、ホームスチールは7回も成功させている。その話になると、福本豊が「3盗は技術でやる」とコメントしたのを例に出し、「ホームスチールは頭でやるんだよ」と普段にも増して鼻の穴を広げた。
カウント1-2は変化球
プロ野球界から追われた野村は、02年の11月からシダックスの監督兼GMという仕事を得る。自身が高卒でプロ入りしたことで、それまでは「間違った癖が身につく」と社会人野球を穿って見ていたが、グラウンドで目の当たりにした社会人選手からは、長い野球人生で気づかなかった新鮮な発見が溢れていたようだ。
――社会人って捕手が出すサインを、ショートが1球ごとに背中から指で、外野手に守備位置を変えるように伝えてんだぞ。そんなこと、プロだってやってないのに……。
その社会人野球で気づいた1つが「カウント1-2(当時はストライクが先に表示されたので2-1)」と投手が「さぁ、追い込んだ」、打者は「追い込まれた」と思った場面では、投手と打者の感覚が「次は変化球」で一致するということ。同じ球種で一致しているわけだから、投手がどれだけコース一杯にフォークやスライダーを決めようが、その球種をマークしている打者はストライクゾーンならついていくし、ボール球は手を出さない。ただし松井秀喜や清原和博といった高校から中軸を打ってきた強打者は「自分にそんなワンパターンな攻めはしてこない」という自尊心があるため、その法則は及ばない。むしろこうした体で覚えた感覚は社会人野球出身者、つまり高卒、大卒でプロに指名されなかった苦労人ほど身につく……。
カウントに関する野村の言葉は他にもある。「初球のカーブは手を出さない」。打者は、140キロ以上の速球を意識して打席に入り、あわよくば本塁打してやろうと目論んでいる。そんな時に初球、20キロ以上遅くタイミングがまったく合わないカーブがど真ん中に来ようとも、打者は打ち損じた時に悔いが残ると手を出さないというのだ。私はそのことを巧打者で、野村がとくに愛弟子と認めた宮本慎也に確認した。彼も「抜けたカーブなら打ちますが、普通は見送ります」と話していた。
「フルカウントはボール球」も口癖だった。前述したように1-2からのフォークは、低めぎりぎりのボールゾーンに落ちようが打者は簡単には手を出さない。2-2からも同様だ。ところがフルカウントになると、明らかなワンバウンドなのに打者はスイングして3振になる……野球ファンなら「どうしてあんなボール球を」と思ったことは1度や2度ではないだろう。そのことを野村は「4球が嫌だから、ピッチャーはボール球は投げてこないという先入観がある」と分析し、その裏をついて「フルカウントはボールでいいぞ」とサインを送った。
この言葉の源は現役時代まで遡る。西武で「兄やん」こと松沼博久をリードした時、フルカウントで高めのボール球を要求した。松沼はタイムをかけて野村を呼び、「ノムさん、カウント間違えているんじゃないですか」と指摘したが、「いいから投げてみ」と投げさせると、打者は見事に空振りしたそうだ。
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source : 文藝春秋 2020年4月号