柔道家モハメド・ラシュワン氏は、エジプトの英雄だ。1984年ロサンゼルスオリンピックの柔道無差別級決勝で、現在のJOC会長である山下泰裕氏と金メダルを争い、最強最高の地位をめざし、まさに死力をつくした戦いを繰り広げた。ラシュワン氏は、山下氏が試合前に痛めていた右脚への攻撃に拘泥せず、結果として、戦いには敗れたが、「グッドルーザー」として高く評価され、国際フェアプレー賞を受賞した。
人生をかけた戦いでの駆け引き、勝敗をわける一瞬の機微、気合いは、闘った2人だけにしかわからない部分もあるだろう。しかし、敗者のラシュワン氏が金メダルの表彰台に上がる山下氏に手を差し伸べた時の謙虚であたたかい表情の清々しさは、多くの日本人の記憶に残っているのではないか。
2020年1月末、そのラシュワン氏が、広島大学にやって来た。巨体を揺らしながら、出迎えに立った私に、一歩一歩近づき、「ありがとうございました。先生のお陰で楽になりました」と微笑んだ。
私は、35年間、膝関節外科の診断治療に明け暮れた。広島カープの主力選手やワールドカップに出場したサッカー選手の前十字靱帯再建、軟骨修復にも携わった。軟骨治療に関しては、独自の治療法を開発できた。海外からの招待講演も積極的に受け、170回以上に及んだ。私の開発した手術法を、中東のアルジャジーライングリッシュやNHKワールドが番組として取り上げてくれたためか、誰もが知っているハリウッドのスター、各国の超VIP、インドネシアの元大統領からも診察依頼を受けた。
5年前に学長に就任してからはエジプトとの不思議な縁に恵まれ、私は3度も訪れた。最初はカイロ大学との包括協定の時。2度目はエジプトの3つの大学とピラミッドを背景に協定を締結した時で、式典の後には、20年来の友人である世界的プリマドンナ中丸三千繪氏がピラミッドに幻想的な夕闇が迫る中で、オペラコンサートを開いてくれた。
そして3度目は昨年4月で、エジプト政府主催のグローバルフォーラムでの講演に招かれた。その時にラシュワン氏からの診察依頼を受けたのである。
どのように知られたのかは分からないが、アルジャジーラはアラブ諸国で3500万人が観ており、ラシュワン氏もそこで私が出演した番組を観たのかもしれない。カイロ大学病院で医学部長、病院長を始め、多くの関係者、マスコミに取りまかれる中、彼が診察室に現れた。
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source : 文藝春秋 2020年6月号