日本海を望む小さな丘にひとり立つ。足元に小さく咲いたハマナスが悲しく思えるのは、先頃、死というものに接したせいだろう。
ここは町境の海辺に建つ、焼きイカを売る店の裏手。すぐそばには、大きな三角屋根の犬小屋がある。そこの主は牡の犬で、私にとっては長く行動を共にした仲間であった。
犬の名は、わさお。
白くてわさわさした毛並みに愛嬌のある顔立ちを持ち、全国的な人気者となった、あのわさおだ。
ちょうど12年前の今頃、私はこの同じ場所で初めてわさおに出会った。
その頃わさおはまだ幼く、溢れんばかりのエネルギーを持て余し、やんちゃに暴れまわっていた。素朴で急ごしらえの犬小屋らしき箱があり、そこに繋がれ、なぜかしら誇らしげな顔をしていた。
わさおは捨て犬だった。
しかし焼きイカ屋の店主、菊谷節子さんに巡り合い、その運命が大きく変わって行く。
そしてこの日以降、私もまたわさおの生涯に関わりを持つようになる。その生き様を見つめ続ける、言わばわさお物語の観客となったのだ。
それは冒険譚であり、ラブロマンスであった。かと思えば落語や浪花節のようでもあった。今日はその中からお別れの物語を幾つか取り出してみるとしよう。
まず最初は老犬チビとのお話。わさおは当初、チビという名のおばあちゃん犬と一緒に暮らしていた。チビはわさおの師匠であった。暑さをしのぐ水浴びの仕方や、おなかの調子が悪い時に効く草の種類など、生きるための知恵をわさおに与えた。
3年ほどの時が流れ、とうとうチビの命の炎が燃え尽きた。わさおは一声出して泣いた。どうにかならんのか、なんとかせよといった眼差しで私をじっと睨んでいた。納得できん、腑に落ちん。そんな顔であった。
チビと別れた年の秋、わさおは飼い主の節子さんと共に、自身を題材にした映画の撮影に挑んだ。そしてこれを見事に成し遂げた。
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source : 文藝春秋 2020年8月号