スペイン2万8000人、フランス3万人、英国4万1000人……死者の多くは病院ではなく介護施設で亡くなっている。医療現場とは別の世界から見えてきた、「命の選別(トリアージ)」による悲劇を取材した。
宮下氏
「命の選別」による悲劇
日本では、新型コロナウイルスによる死者が少ないのか。それとも、欧州が多いのか――。
3月14日に始まったスペイン非常事態宣言以降、約3カ月間にわたって「ロックダウン生活」を経験した私も、実は当初から、この疑問を持ち続けてきた。なぜなら、スペインでは1日の新規感染者が最大9222人(3月31日)、死者が同950人(4月1日)に上る中、日本では、様相が大きく異なったからだ。同じコロナであるにもかかわらず、東アジアでの死者は圧倒的に少なかった。
本誌6月号で、スペインの医療崩壊について、私はこう持論を述べた。大量死の引き金となったのは、2008年から6年間続いた経済危機の影響で、膨大な額の医療費削減が実行されたからだ、と。医師・看護師の不足や、集中治療室(ICU)の病床不足で救えなかった命を見れば、その論自体に誤りはなかったと思う。
だが、その後、取材を重ねるにつれ、医療現場とは別の世界から見えてきた惨状があった。
それは、民族の違いや遺伝的な「ファクターX」の有無とは無縁の、もっと単純極まりない「命の選別(トリアージ)」による悲劇だった。日本が統計上の比較をするヨーロッパで、死者数を増加させるような政策があったと言ったら、読者はそれを信じることができるだろうか。
スペイン保健省によると、8月28日現在、コロナ感染によるスペイン全体の死者は2万9011人。しかし、そのうちの1万9824人、すなわち、約10人に7人が病院ではなく、高齢者介護施設で治療も受けられず、隔離されたまま亡くなっていたのである。
コロナ死者の7割が介護施設から
「私の記憶から二度と消すことができない光景がありました。それはある医師が施設に入ってきて、(一人ずつ指差しながら)モルヒネ、モルヒネ、モルヒネ、と言ったのです」
これは、全国高齢者介護施設経営団体のシンタ・パスクアル代表が、6月5日、スペイン下院議会の新型コロナウイルス報告会の場で証言した内容だ。感染者と死者の数がピークに達していた3月下旬から4月上旬、首都マドリードの主要病院は患者で溢れ、ICUは崩壊状態に陥っていた。
パスクアル代表が語ったように、集団感染が発生した介護施設では、感染した入所者が隔離され、病院搬送が行われないまま死を待った。施設に来た医師は、流れ作業のようにモルヒネを投与して死に導くよう指示を出していたという。現状を把握していなかった入所者たちは、家族に会えず、たちまちコロナに冒され、亡くなっていった。
われわれの目に見えない場所、つまり介護施設の現場で、甚大なコロナ被害が起きていた。ところが、テレビ、新聞、ネットニュースは、毎日、逼迫する病院や野戦病院を始め、疲弊する医療従事者ばかりに焦点を当てていた。私も当初は、そのような情報に意識が向いていた。
病院で起きていた生と死を巡る衝撃や葛藤は、前例のないことだった。3月下旬、内科医や呼吸器内科医は、「見たことのない患者の山」、「涙も出てこない」と、困惑した様子で私に話していた。ある集中治療医は、ICUで起きていたトリアージを嘆いていた。
3月と4月の2カ月間で、病院で亡くなった患者数が膨大であったことは事実であり、そこに疑いの余地はまったくない。だが、病院で亡くなったコロナ患者の数を振り返ると、データ上は約9000人となる。
つまり、介護施設で約2万もの死者を生んだこの惨禍の責任は、医療現場にあるのではない。これは紛れもなく、政治判断のミスで、「医療崩壊」を恐れるがあまり練られた政治家の策の失敗であったのではないか。私は、ある時点からそう思うようになった。
もう一度、強調しておきたい。コロナによる死者の10人中7人は、病院ではなく、医療措置が行われない介護施設で息を引き取っている。
病院に搬送してもらえなかった父
スペイン公共放送局「RTVE」が、各州の保健省(同国は自治州制度で、各州に保健省がある)から集めたデータ(8月23日付)によると、次のような数字が表れている。
首都マドリードがある中部マドリード州では、全体の死者8537人に対し、5984人が介護施設で死亡。バルセロナが州都の北東部カタルーニャ州では、同5724人に対し、4130人が同施設で亡くなった。中でも、北西部カスティーリャ・イ・レオン州では、全体の死者2810人に対し、同2608人と、ほぼ全員が介護施設で亡くなっていた。
マドリード市内にある介護施設「モンテ・エルモソ」では、3月17日、施設内で19人が死亡、70人が感染したと報じられた。130人の高齢者が暮らすこの施設は、スペイン国内でいち早く注目を浴びた。
3月18日、父親のフアン・クミアさん(享年87)を同施設で亡くしたマドリード在住のジョランダ・クミアさんは、5カ月が過ぎてもなお、当時の施設の対応を理解できずに茫然自失する。
「前日の午後8時、父がトイレに行った際に転んだという連絡が施設から入りました。その6時間後、『体調が急変し、呼吸困難に陥った』との電話があったのです」
フアンさんは、その直後に死亡。人工呼吸器装着などの措置が行われないばかりか、病院にも搬送されなかった。翌朝、送られてきた死亡診断書には「コロナの疑い」と書かれていた。この時期には、まだ十分な検査体制が整っていなかった。
娘のジョランダさんは「ずっと健康だった父がなぜ突然、体調を崩して死んだのか理解できない。6時間で何が起きたのか、誰も教えてくれません」と声を落とした。
マドリード市内の介護施設で、勤続13年の女性介護士、エステル・ビエルサさんは、2週間で12人の入所者を看取った。電話で本音を語ってくれた。
「とても怖かった。私もこのまま死んでしまうのかと思った。コロナにかかったわけではないけれど、夫と7歳の息子がいるので、仕事を放棄しようか悩んでいました……」
責任感がないと蔑まれるかもしれない。だが、1日最大345人(3月27日)の死者を数えたマドリード州で、情報も防護服も不足していた状況で、彼女のような心理に襲われることは、私にも理解できるし、軽視されるべきではないだろう。これが、全国の介護施設で起きていた現実だった。
では、一体なぜ、このような惨禍に追い込まれてしまったのか――。
そこには、州政府と州保健省が「意図的に行った政策」があり、それが後に失策であったことが徐々に明るみに出たのだった。
マドリード州の保健省は6月、コロナが猛威を振るい始めた3月上旬、介護施設の老人を病院搬送しないことを決めたプロトコルを「誤って送信」していた事実を認めた。地元メディア「ニウス」が入手したそのプロトコルを熟読してみると、そこには「病院搬送排除の基準」という文字がはっきりと書かれている。
この基準と結末については、後述する。
多くの入所者を看取ったエステル・ビエルサさん
病院搬送は無理
同時期、カタルーニャ州でも、似たような問題が発生していた。
独立系ネット新聞「インフォ・リブレ」は7月7日、同州政府から入手した介護施設での感染と死者のデータを掲載。それによると、被害の多かった3月と4月の2カ月間で、同州では、合計3891人の入所者が死亡。病院搬送されずに施設内で亡くなった入所者の数は2797人(71.9%)で、病院で亡くなった入所者の数は1094人(28.1%)だったことが分かった。
背景には、同州保健省の管轄である救急救命隊(SEM)が3月24日に発行した勧告書が関係しているようだった。「80歳を超える患者」と記された横に、「人工呼吸器を付けない」と書かれ、要介護者や末期患者は「病院搬送しない」との勧告が示されていた。
この勧告書を入手した上で、私はSEM隊長や保健省の医療職員事務局長を取材した。
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source : 文藝春秋 2020年10月号