このところ毎年のように冬から春にグリーンランド北部で長期間の探検旅行をしている。コロナ禍の今年もそれは変わらず、3月から5月まで2カ月近く犬橇で氷原を放浪していた。探検中は停滞時の暇つぶし用に文庫本を必ず何冊か持参するが、今回は古井由吉『辻』。非日常的な空間のなかで、日常的な人と人との関係の愛おしさや普遍性を表現する文章に触れるたびに、日本に残した家族のことを思い出し、また、偶然という脆く、儚い契機に左右される人生の不可思議さに考えをめぐらせた。
しかしそれにしても、この本を読んでいる間に、まさか世界がこんなことになっているとは思いもよらなかった。なにしろ旅の間はほとんど情報が遮断されており、コロナ禍の詳細をまったく把握していなかったのである。著者の古井氏が亡くなっていたことも、じつは帰国してから知ったことだった。
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source : 文藝春秋 2021年1月号