「池江璃花子は病室で笑った」

吉田 正昭 株式会社ルネサンス元社長
ニュース スポーツ
育ての親が初めて明かす奇跡の復活までの406日
池江④
 
吉田氏

五輪出場は想像すらできなかった

 レース前にコーチから「調子は悪くないし、五輪本番だからといって気負っている素振りもない」と聞いていました。璃花子本人も「楽しんで泳ぐ」と私に話していましたから、何の心配もなかった。

 7月24日、東京五輪の女子400メートルリレーの予選。テレビ中継で観戦していましたが、集中してレースに臨めていたし、タイムにしても53秒台で悪くなかった。

 璃花子の泳ぎを見ると、テクニックはやはり超一流。ただ海外のトップクラスの選手と比べると、どうしてもパワーの面で劣ってしまう。それでも今できる最高のパフォーマンスを見せてくれたと思います。

 400メートルリレーの結果は9位で、残念ながら予選落ちでしたが、8位のスウェーデンとの差はわずか0.27秒です。予選通過はギリギリの勝負になると璃花子から聞いていた通り、拮抗したレース展開になりました。

 彼女以外のリレーメンバーは、五十嵐千尋さん、酒井夏海さん、大本里佳さん。急造チームではなく、何度もレースで闘い、組んだことのある選手たち。「この4人で泳ぎたい」と話していた璃花子にとって、価値のある一戦になったと思います。だからレース後、「悔しさ8割、楽しさ2割ぐらい」という言葉が出たのでしょう。

 私は所属先のルネサンスの社長として(現在は同社顧問)中学2年生から約7年間、璃花子の成長を見守ってきました。2年半前、彼女を襲った出来事を考えれば、今夏、五輪のスタート台に立つなど想像すらできませんでした——。

池江①
 
東京五輪ではリレーに出場

「璃花子の様子がおかしい」

 オーストラリアのゴールドコーストから一報が届いたのは、2019年の2月に入ってからでした。

 同年1月18日から約3週間の予定で海外チームの合宿に参加していましたが、まず「璃花子の様子がちょっとおかしい」との情報が、日本にいた私にもたらされました。練習中に肩で息をする場面が多いと。現地の医療機関で検査を受けると、日本で再検査を受けたほうが良いという結果になった。予定より2日早く合宿を切り上げ帰国し、日本で改めて受診しました。

 信じたくない、嘘であって欲しい。病名を聞いた瞬間、言葉を発することができませんでした。

 中学時代から彼女の泳ぎを見てきて、「東京五輪でメダル」という夢も聞かされていました。リオで初めての五輪を経験し、2年後の日本選手権では出場の4種目すべてで日本新記録を出した。ジャカルタのアジア大会では6冠で最優秀選手に選ばれるなど、ちょうど世界のトップレベルで戦える時期でした。

画像6
 
リオ五輪

 そうして積み重ねてきた努力が病魔によって1度消えてしまうわけで、彼女の心境を思うと、かける言葉が見つかりませんでした。

 水泳云々ではなく、璃花子の命……とにかく元気になってほしい、それだけを考えていました。

〈私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。(略)

 今は少し休養を取り、治療に専念し、1日でも早く、また、さらに強くなった池江璃花子の姿を見せられるよう頑張っていきたいと思います〉(注・池江本人のツイッターより)

 急性リンパ性白血病の診断が下った後、璃花子はSNSで病名を公表します。もちろん彼女自身の判断で、その後も病床から発信を続けた。すると全国のファンから、メッセージはもちろん多くの応援、お見舞いが続々届きました。

 過酷な入院生活は1年近くに及びましたが、入院の最中、ツイッターにこう綴っています。

〈思ってたより、数十倍、数百倍、数千倍しんどいです。3日間以上ご飯も食べれてない日が続いてます。でも負けたくない〉

 彼女自身のホームページでは、〈正直、心が折れそうな時もあります。ですが、たくさんの言葉にはげまされ、最後まで頑張りたい、負けたくないという気持ちがこみ上がってきます〉との直筆コメントを公開しました。

 お見舞いに行っても、病室の璃花子は僕らに辛そうな顔は一切見せません。ときおり笑顔すら見せて、気丈に振る舞っていました。絶対に弱音を吐かず、病魔と闘うと心に誓っていたんでしょうね。

 今年になって出演したテレビ番組で、お母さんに「死にたい」と漏らしたことがあると話していた。璃花子1人ですべてを抱え込むことなくご家族で辛い状況について本音で話し、共有されていたんだなと知りました。

 体調の悪い日は顔だけ見て帰ることもありましたが、そうでないときは「しっかり治そうよ」「ちゃんとゴハン食べているか?」と、たわいもない話をしました。水泳の話はあまりしなかった。病院食に飽きて食べられないと聞き、スタッフと美味しいと評判のミックスサンドイッチを探して、差し入れしたこともあります。

14歳から「規格外」

 はじめて会ったのは璃花子が中学2年生のときだったでしょうか。

 地元のスイミングクラブから移籍してきて、18歳以下で競うジュニア五輪などで次々と中学記録を更新していた頃、コーチから将来強くなる選手が入ったと聞かされ、試合会場で泳ぎを見ました。

 ルネサンスには当時から可能性のある多くの選手がいましたが、璃花子もその一人で、かれこれ7年ほどの付き合いになります。

 すでに「規格外」の選手で、ジュニアでは群を抜いた素質をもっていました。体格面でいえば、両腕を伸ばした長さ、いわゆるリーチが身長より10~15センチほど長い。一般的にリーチは身長と同じと言われています。100、200メートルバタフライの世界記録をもっていたアメリカの“怪物”マイケル・フェルプス選手を超える比率だというのです。

 だからひと掻きで進む距離が長く、日本人の自由形では見られない、スケールの大きな泳ぎでした。

 まだ中学生で身体が成長し切っておらず、筋力的にも不十分な状態でしたが、日本のトップレベルの泳ぎを見せていた。当時は自由形で世界と戦える日本人はいなかったのですが、この子なら世界のトップを狙える選手になるかもしれないな、しっかり育てなくてはと大きな責任を感じたものです。

 中学時代から、気遣いのできる、本当に礼儀正しい子でした。最初は社長と選手の関係で少し距離がありましたが、打ち解けていくにつれ、彼女の水泳に対する考えや目標などを聞くようになりました。何かあるときはコーチ経由で連絡をもらうこともありました。

 基本的に私の方から水泳に関して込み入った話はしません。コーチがしっかり練習を管理していますし、色んな立場の人間からアドバイスされると、選手は混乱してしまいますからね。私は、璃花子やコーチの後ろでじっと見守り、何かあればいつでも支えられるようにしています。

自覚が足りない時期も

 今となっては想像もつかないかもしれませんが、璃花子にはアスリートとしての自覚が足りていない時期もありました。

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source : 文藝春秋 2021年9月号

genre : ニュース スポーツ