毎年、ノーベル賞の発表される10月は、通信簿をもらう生徒の気分になる。日本の学問水準の評価が下されるように感ずるのである。今年は真鍋淑郎氏が物理学賞に輝いた。ここ1年間、大リーグ大谷選手のホームラン以外にさしてうれしいこともなく燻ぶっていた私にとって、久し振りのめでたいニュースだった。気候変動の予測モデルを作った功績によるもので、現代の気候研究の基礎となる先駆的研究だという。四国のド真中、すなわちド田舎で生まれ育ったのも、日本の底力を示すようでうれしかった。また、真鍋氏が正野重方教授の弟子と知って格別うれしかった。正野さんは祖父の兄、藤原咲平の弟子であり、父の飲み友達でもあったからだ。父が編集者を連れ銀座のバーを飲み歩き、5万円を使って夜遅く帰宅すると、玄関で迎えた母が必ず、「私は5円安い豆腐を買いに1キロ先の店まで行っています」、と嫌味を言ったものだが、正野さんと飲んだ時だけは愚痴をこぼさなかった。美しいホステスなどのいない安飲み屋での差しつ差されつだったのだろう。
ノーベル賞は物理学賞、化学賞、医学生理学賞、の自然科学三賞のみが本物である。文学賞は余りにも主観的だし、平和賞に至っては、佐藤栄作、金大中、ジミー・カーター、バラク・オバマと並べただけでほとんどジョークだ。経済学賞は、スウェーデン国立銀行が1969年に勝手に始めた代物で、受賞者は新自由主義の流れをくむ者が多く、また4人に3人はアメリカ人だ。政治的なものとは言え、日本人が1人もとれないのは不思議だ。近年の経済学は、分野によっては数学科大学院レベルの数学を使うようになっている。日本人が経済学賞をとれない理由の一つは、経済学が文系と見なされていることにあるのではないか。東大でも経済は文科2類だし、大半の私立大学経済学部では、今も入試で数学が必須となっていないのである。
それにしてもノーベル数学賞がないのは残念だ。あったら受賞できそうな日本人がすぐに20人近く頭に浮かぶからだ。数学賞がないのは、ソーニャ・コワレフスカヤというロシアの優秀な美人数学者に片思いしたノーベルが、高名な数学者であり恋仇でもあったミッタク=レフラーが受賞するのを恐れ、数学を外したためという説もある。20年ほど前、スウェーデンのミッタク=レフラー研究所を訪れた際、所長に説の真偽を尋ねたら、「ソーニャは、会う男性が皆恋心を抱いてしまうほどの、知性と美貌と、魅力ある話術の持主だったようです」と言ってニヤッと笑った。
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source : 文藝春秋 2021年12月号