“危機のリーダー”が待ち望まれている
――現在、世界は100年に1度の“大変革期”を迎えています。デジタル化の推進で産業構造に大きな変化を迎えるなか、コロナのパンデミックという予期せぬ事態も起きました。従来のビジネスモデルはもはや通用せず、日本国内の多くの経営者、そして政治家は非常に難しい舵取りを迫られています。今こそ強力な指導力を備えた“危機のリーダー”の登場が待ち望まれていますが、政界、経済界にそうした人材が見当たらないのが現状です。
豊田章男社長は、2009年6月にトヨタ自動車社長に就任されて以降、リーマン・ショックによる過去最大の赤字、大規模リコール問題、東日本大震災など様々な危機を経験されてきました。有事におけるリーダーシップと大胆な経営改革によってそれらの危機を乗り越え、トヨタは現在も日本経済を牽引するリーディングカンパニーであり続けています。今回はご自身の経験を交えつつ、この大変革期をどのように乗り越えていくべきか、お話をうかがいたいと思っています。
豊田 よろしくお願いします。たしかに、私が社長に就任してからを振り返ると、平穏無事に過ごせた年は1回もなかったですね(笑)。だから有難いことに、まだ社長を続けられているのですが。
社長就任当初は“捨て駒”だった
――まずはじめに豊田社長がどのようにリーダーとして鍛えられていったのか、お聞きしたいと思います。社長就任時から波乱含みでしたね。
豊田 私の社長内定の人事が発表されたのは、2009年1月20日です。「豊田」の名をもつ私は、当初、社内の誰からも歓迎されない空気を感じました。
1937年の創業以来、トヨタは長らく豊田家出身のトップが続いておりましたが、7代目となる豊田達郎(在任期間:1992~95)を最後に、奥田碩(95~99)、張富士夫(99~05)、渡辺捷昭(05~09)と、豊田家以外のトップが続いていた。いわば“民営化”のイメージが固まりつつあるなか、創業ファミリーの人間が突如、舞い戻ったことになります。しかも当時、私は52歳でした。私以前の社長は4代つづけて62歳前後で就任しており、なんとなくトヨタ社長の適齢期というイメージもついていた。私より10歳上です。そういうこともあって「大政奉還」「名ばかり社長」などと、批判を受けたことは必然だったように思えます。
それに加えて、前年のリーマン・ショックで日本の自動車業界は多大な悪影響を受けていた。トヨタの2009年3月期決算は、4610億円の営業赤字を記録しました。創業以来、最悪の数字です。未曽有の危機の真っ只中における御曹司の社長就任ですから、社内にお祝いムードはもちろんなかった。私の方では「お手並み拝見」という冷ややかな視線ばかり感じてしまいました。
今だから正直に申し上げると、当時の会社は、このまま私に赤字の責任をとらせて社長を辞めさせればいいと考えていたのかもしれません。
――言葉は悪いですが、“捨て駒”と見られていた?
豊田 そう、まさに捨て駒だったと思います。会社から協力的な姿勢を全く感じられませんでしたから。
就任直後、まずは黒字化を目指すため、収益構造の改革に取り組みました。2009年11月の段階で、会社側から提示された収益見通しは赤字でした。決算まで4カ月の時間が残されており、まだまだ手立てはあると感じていました。ところが、会社側から提示された委員会立ち上げの時期は翌年4月です。「今期は赤字にして、その責任を章男にとらせて辞めさせよう」との魂胆が見え見えでしたね。そこでみんなでなんとか2010年3月期決算で2期ぶりとなる黒字転換を達成します。ひとまず乗り切った。ほっと一息つけると思ったら、追い打ちをかけるようにやってきたのがリコール問題でした。
リコール問題の記者会見で
「国と会社に捨てられた人間」
――まさに泣きっ面に蜂の状況ですね。2009年から発生したアメリカを中心とした大規模リコール問題は、豊田社長にとって一番の試練だったのではないでしょうか。発端は2009年8月、米カリフォルニア州でトヨタの高級車のレクサスが急加速して土手に激突、車に乗っていた家族4人全員が死亡した事故でした。その後、トヨタの車のペダルやブレーキの不具合が相次いで報告され、世界規模の大規模リコールへと発展しました。
日本国内でリコールが問題視された際、最も注目されたのは、米下院の公聴会に豊田社長自身が出席するか否か。豊田社長は当初、公の場になかなか姿を現さず、批判を受けていましたね。
豊田 リコール問題にかんして、会社は2010年2月2日に日本国内で最初の記者会見を、同月4日に2度目の記者会見を開きましたが、確かにどちらにも私は出席しなかった。最初から出るつもりでしたが、「絶対に出るな」と、会社から止められていたのです。
――社長自らが出ると言っても、難しいものですか。
豊田 そう、何といっても「捨て駒」ですから(笑)。しかし、それでは世間は納得しない。2度目の記者会見が終わったところで、「このままではダメだ。すぐに3度目の会見を開き、私自身の口から説明する」と、周囲の反対を押し切って決断しました。2度目の記者会見は木曜日でしたが、土日を跨いでいる暇はない。翌日の夜9時から緊急会見を開くことに決めました。
ただ、発言内容はかなりの制限を受けた。すでに私は公聴会に出席する腹積もりで、記者会見でその旨を説明しようとしましたが、「公聴会にかかわる発言は一切しないでくれ」と止められました。会社としては、私の公聴会出席に反対だったのです。米トヨタからも、「ここに記された内容以外は発言しないでください」と詳細なメモが送られてきました。
当然ながら記者会見は上手くいかず、メディアからはさらなる批判を浴びることになりました。うちの広報からは「ほれ見たことか」、「俺達の言うことを聞かずに勝手なことをするから、あんなグチャグチャになるんだ」と、散々の言われようでしたね。
――当時、メディアのバッシングは凄まじいものがありました。
豊田 これは完全に僕を潰しにかかっているな、と。私は今でも自分を「国と会社に捨てられた人間」と呼ぶことがありますが、ひしひしと孤独を感じていました。
初めて会社の役に立てるかもしれない
――2010年2月18日、米下院は正式に豊田社長の公聴会への招致を決定します。翌日、豊田社長も出席を表明されました。公聴会開催は同月24日でしたが、アメリカに向かう時はどのような心境でしたか。
豊田 日本を発ったのは2月20日でしたが、覚悟らしい覚悟は、特になかったですね。「俺の社長人生も終わったな。1年ももたなかったとグチグチ言われるんだろうな」ってぼんやり考えながら飛行機に乗り込んだ。
――短い社長人生だったなと。
豊田 本当にそう感じていましたね。でも、ふと、ひとつの考えが頭をもたげました。もしかすると、社長になって初めて会社の役に立つ人間になれるかもしれないなと。会社が危機に瀕した状況で、世論が重要視するのは話の中身ではなく、「誰が言うか」。私は創業者ファミリーの一員であり、自社の商品全てに私の名前が冠されている。車が傷つけられることは、いわば私自身の身体が傷つけられることと同じ。そう公聴会で説明し、共感していただける人間として、私以上の適任者はいない。まさにベストキャスティングだなと考えたのです。
創業ファミリーの一員である私が、世間に対して誠実に説明ができれば、今一度トヨタに信頼を取り戻せるかもしれない。たとえ1年足らずで社長をクビになったとしても、結果的に会社を救えるのであれば本望だと腹を括りました。ここが社長として大きなターニングポイントになったと思います。
夢での発言をノートに書き留めた
――アメリカに到着してから公聴会当日まで、どのように過ごされていたのですか。
豊田 社有の専用機で日本を発って、最初に到着したのはアラスカ州のテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港でした。そこからニューヨークに向かうわけですが、市内の3つの空港には、パパラッチが大勢待ち構えている。彼らを避けるために上空で行先を変更して、ワシントン郊外の飛行場に向かいました。ワシントンは大雪でしたね。人目を避けるため、販売店の方が所有する別荘に滞在することになりました。
別荘に到着するとすでに、米国トヨタ社長(当時)の稲葉良睍さん、米国トヨタ自動車販売社長(当時)のジム・レンツさん、弁護士、現地スタッフらが待っていた。公聴会までに残された時間は3日間だけ。毎日、全員で机を囲み、模擬公聴会をおこなうことになりました。
ただね、早朝から夜中までぶっ通しで練習しようと言うんです(苦笑)。そんなに無理やり頭に詰め込んだら、自分が何を知っていて、何を知らないのか分からなくなる。公聴会当日に混乱するのは目に見えています。「僕の言うべきことは固まっているから、1時間だけ練習して帰ります」と言うと、「さすがに午前中は我慢してください」と懇願されましたね(笑)。
――大ピンチなのに落ち着いていたんですね。
豊田 飛行機の中で、社長を辞める覚悟が出来ていましたからね。地位や権力に対する執着がなくなった途端にリラックスできるようになりました。
決して格好をつけるわけではなく、社長として会社の役に立てることが、とても嬉しかったんですよ、本当に。不思議なことですが、アメリカに着いてから公聴会に出席する夢を何度も見ました。夢では、下院議員から意地悪な質問をたくさん受けるのですが、私は非常に上手く受け答えをしていた。自分でも驚くくらいでした(笑)。目が覚めるとすぐ自分の発言を忘れないようノートに書き留めました。実際の想定問答集はそのメモを元に作り上げたものです。その時に使った小さなノートはいまでも大切に保管しています。
公聴会までの生活で心掛けていたのは、1日1回、笑うこと。死に際を悟った人って「人生の最後は笑って過ごしたい」と考えるんじゃないですかね。私もそんな心境でした。稲葉さんやレンツさんは、毎日12時間以上の模擬公聴会を続けて、表情もどんどん暗くなっていきましたね。「今日はいい天気ですね」と声をかけても、2人の反応は薄かった。社長を辞任すると決めていた私はともかく、公聴会への出席はそれほど精神的な重圧がかかる。せめて私だけでも明るくしておこうという思いもありました。
公聴会前夜には、「これで終わりだから、最後は笑うことを仕事にしよう」と、部屋で食事をしたんですよ。
――当時の心境としては、最後の晩餐ですよね。
豊田 いや、それが面白かったことに、テレビを見ていたらニュースで「豊田章男」が話題になっていた。私の頭がおかしくなって逃げ出したのではと邪推されていたのです(笑)。メディアは往々にして“ストーリー”を作りたがりますからね。「俺はここにいるんだけどな」とワインを飲んで笑っていました(笑)。
逃げない・誤魔化さない・嘘をつかない
――公聴会当日、豊田社長の証言は「私は誰よりも車を愛し、トヨタを愛し、お客さまに愛していただける商品を提供することを最大の喜びと感じてきた」との言葉から始まりました。
豊田 公聴会で一番伝えるべきことは、日本を出国する前から心に決めていました。「過去の経営判断は、その都度正しかったと思っている。ただし会社の成長スピードが、人材育成のスピードを上回ってしまったことが問題だった」というものです。そのうえで「安全、品質、コストという優先順位が崩れ、顧客の声を聞く姿勢がどこかでおろそかになっていた」と話し、信頼回復に向け全力を尽くすことを表明しました。日本を発つ前、歴代の社長の方々に対し、この内容で問題ないか、確認をとりました。3時間20分ほど続いた公聴会での指針は「逃げない・誤魔化さない・嘘をつかない」の3つです。これらはその後の社長人生のベースにもなっています。
私を救ってくれた最後の質問
――世間が驚いたのは、公聴会の直後、24日午後9時から放送されたCNNテレビのトーク番組「ラリー・キング・ライブ」に生出演されたことです。
豊田 テレビ出演を決めたのは、その前日にレンツさんが出席した公聴会に対する報道がきっかけです。
本来のスケジュールでは私の出席がレンツさんより先だったのですが、大雪のために後ろ倒しになり、順番が逆になった。レンツさんの公聴会での様子をテレビ中継で見ると、非常に誠実で丁寧な受け答えをされており、私も大きな手応えを感じました。
ところが、その後のニュースをチェックしていたら、トヨタの株価とフォードの株価を比較する映像が流れ始めた。またレンツさんの発言が部分的に切り取られ、意図的な編集が施されているものもあった。悪質な印象操作で、あの時ほどメディアに不信感を抱いたことはありませんね。
公聴会に出席するだけでは、自分の思いは世間に正しく伝わらないのではないか。そんな危機感を覚えた私は、すぐさまスタッフに電話し、「生放送の番組に出たい、どこか探してくれ」と伝えました。
――あれは豊田社長のアイディアだったんですね?
豊田 当時は大手テレビ局のABCが、トヨタ車の欠陥疑惑キャンペーンを大々的に展開していた。急加速の再現実験映像を何度も流していましたが、のちに、その映像は捏造されたものと判明しています。出演するなら、ABCとは別のテレビ局がいいと考え、CNNの「ラリー・キング・ライブ」に打診したところ、その日のうちに、翌日放送の番組に生出演することが決まりました。
――テレビ出演の手応えはどうでしたか。
豊田 いや、ラリー・キングさんはとにかく意地悪でしたよ(笑)。CMに入るたびに「次はこんな質問をするから」と言うのです。それで一生懸命答えを考えるでしょう、するとCM明けには全然違う質問が飛んでくる。困ってしまいましたよ(笑)。
だけど、番組の最後、非常に良い質問をしてくれました。「あなたは何の車に乗っているのですか?」と。私はそこで初めてニコッと表情を緩めることができ、本来の自分らしさを取り戻せたと思います。ここは率直にお話ししようと、「年間200台の車に乗っています。車が大好きなんです」と答えました。考えてみれば「I love cars.」という強い思いがあったからこそ、社長になってからの苦しい日々を乗り越えられた。それは偽りのない実感でした。この質問が私を救ってくれた。今でも本当にそう思います。この率直な思いは、多くのアメリカ国民の心に届いた実感がありました。単なる大企業のボンボン社長ではなく、車を愛する一人の人間だと親近感を感じていただけたのではないでしょうか。非常に助けられましたね。
実は、公聴会の1年後、ラリー・キングさんを訪ね、「最後の質問で助けてくれてありがとう」とお礼を言いました。どうしても感謝の気持ちを直接伝えたかった。それほど嬉しかったのです。
「お金をつくる」会社になっていた
――公聴会では「事業の成長スピードが速すぎて、人材育成が追いつかなかった」と釈明されていましたが、豊田社長は一連のリコール問題から、どのような教訓を得ましたか。
豊田 当時の会社は資本の論理に傾きすぎていたと思います。急激な成長を追い求めるあまり、軋みが生じていた。元々トヨタは「ものづくり」から始まった会社ですが、資本主義の論理が社内に流れ込んだことで、「お金をつくる」会社に変貌してしまったのです。
分かりやすい例が、2002年からトヨタで導入された、商品展開や販売・生産計画の指針を示すための基本戦略「グローバルマスタープラン」です(2009年1月に廃止)。向こう5年の経営計画を世界規模で示すものですが、どんな車を優先的に生産していくか、どこに優先的に工場をつくるかは、生産台数と収益によって決定されました。残念ながら各国の消費者の目線は全く入っていなかったのです。こうして拡大偏重主義に陥った結果、トヨタは様々な車種を扱うフルラインメーカーであるにもかかわらず、収益を上げる、売れる車だけに特化していった。一方、トヨタの「ファン・トゥ・ドライブ」を体現する車は、どんどん見放されていきました。
――拡大路線から転換を図るべく、どういった改革を進めたのですか。
豊田 社長に就任してから、「もっといいクルマをつくろうよ」と社員にずっと言い続けてきました。当初は社内外から「この社長は数字を語れないのか」「もっといいクルマって何なんだ?」「何を言っているのか、よく分からない」と様々な批判を浴びましたが、今でもこの考えは変わりません。要するに、何よりもまず商品ありきという考え方です。
商品において鍵を握るのは、ロングセラーモデルです。実はロングセラーを作り出すには、商品をどんどん変化させる必要がある。たとえば1966年に誕生した初代カローラは2ドアのセダン型のみでした。それが年代を追うごとにツーボックス系、ハッチバックなどが追加され、今やカローラだけで、セダン、SUV、スポーツモデルなど、多様なラインナップを擁しています。このように自ら変化を繰り返すことでお客様に長く愛され、生き残っていけるのです。
私の就任時を振り返ると、収益を上げる車は4年に1回はモデルチェンジがなされる一方、ほとんどモデルチェンジされないままの車もあった。私が社長になってから、かなりテコ入れしました。
トヨタらしさを取り戻す闘い
――豊田社長の公聴会での率直な言葉は、多くの社員の心を動かしたといいます。会社の危機的状況においては、社員たちを奮い立たせるようなリーダーの言葉が必要とされますよね。
豊田 自分の意見を押しつけるだけの「理屈経営」をやっていては、社員たちは動いてくれません。私が目指しているのは「共感・感動経営」です。
意思決定においていちばん大事にしているのは、様々な人の意見を聞くこと。私は創業ファミリーの人間なので、正直言って、一般のサラリーマンの感覚は分かりません。それに文系学部の出身なので、自動車の専門家でもありません。唯一分かるのは車の乗り味だけ。そんな人間です。だからこそ、あらゆる人間に意見を聞いた上で経営の判断を固めていく。その判断をストーリーにして社内で説明し、実行にうつす。私が12年間かけてやってきたのは、このプロセスの繰り返しです。
社員には「対立軸をつくるな」とよく言っていますし、私自身も、議論で論破しないように心掛けています。私の言葉は単純明快でしょう。だから自己主張の強い人間に思われがちですが、決してそんなことはありません。
――論破された側はなんとなく面白くないですよね。後々までしこりが残ってしまう。
豊田 同感ですね。でも、ある時、次のような指摘を受けたことがありました。「章男社長は対立軸を作るなと言う一方で、闘うという言葉を良く使いますが、一体誰と闘っているのか」と。言われてみれば、確かに私のインタビューや挨拶文には「闘う」という言葉が多い。どうしてなんだろうと、よくよく考えてみたのですが、私にとっての闘いは、「トヨタらしさを取り戻す闘い」なのではないかと。
というのも、社長になってから、「トヨタさんって、昔はこんなことしませんでしたよね?」と、昔馴染みの方からご意見をいただくようになりました。皆さん、はっきりと言い表せないものの、どこか違和感があったのだと思います。
トヨタらしさとは何か。いまだに私の中ではっきりとした答えは導き出せていません。トヨタの社長として「ものづくり」の原点に立ち返り、商品で経営をしていく中で、その思想を作り上げている段階だと思います。
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source : 文藝春秋 2022年1月号