父の小説で初めて本になったのは、昭和30年に出版された『強力伝』だった。ぺらぺらの表紙の本だったが、父はそれをうれしそうに枕元に置いて寝た。年が明けた1月のある日、父は勤め先の中央気象台から帰宅するや、新聞をカバンから出し家族の前でヒラヒラとさせ、「どうだ参ったか、直木賞候補になったぞ」と言った。そして私に、10篇ほどの候補作の中から新田次郎『強力伝』に赤鉛筆で丸をつけるよう命じた。前にサンデー毎日賞の候補になった時、同じことをしたら1等賞に選ばれたからであった。
3週間ほどたった1月末の雪がしんしんと降る夜、玄関のベルが鳴った。母と小学6年生の私が飛び出すと、2軒先の箕輪さんの短大に通う俊子ちゃんがゴム長をはいて立っていた。走ってきたらしく息を弾ませたまま「お電話ですよ」と言った。近所で電話のある家はこの家だけだった。丹前姿の父は書斎から飛び出て無言のまま下駄をひっかけると、20センチ近い積雪の中に飛び出した。母が私に「今日、築地の新喜楽で直木賞の選考委員会があるのよ」と小声で言った。5分ほどして帰った父は「直木賞とった」と堅い表情を崩さないまま言った。母も「よかったわね」と一瞬頬をほころばせたきり、キッと口元を引き締めていた。何か大変なことが起きたらしい、と私は思った。この夜は、家の外も内も不気味なほど静かだった。
翌日、銀座の文春ビルで小ぢんまりとした授賞式が開かれた。帰宅した父は、「皆の注目が『太陽の季節』を書いた石原慎太郎という一橋大学生に集まったから、何もしゃべらなくてすんだよ」と言い苦笑した。私が「石原慎太郎ってどんな人」と聞いたら、「生意気な小僧だよ」と言った。賞金10万円の使い道を聞かれた彼は「こういうお金はみんなして飲んじまうもんじゃあないですか」と言ったらしい。我が家は安い公務員給料の半分近くを住宅金融公庫への返済に回し倹約生活を強いられていたのだった。しばらくして文春から記念写真が送られてきた。最年長の父が真中、同じ直木賞の邱永漢氏が右、芥川賞の石原慎太郎氏が左に坐っていた。足を揃えてかしこまっている父や邱氏とは対照的に、石原氏は長い両脚を左右に広がるだけ広げていた。
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source : 文藝春秋 2022年4月号