取材期間は約3週間。総理を追い込んだ「調査報道」には苦い挫折もあった。
噂でしかなかった「田中角栄金脈」
その色褪せたB5判ファイルの表紙には、「取材日誌 田中角栄研究(昭和)49年11月号」とある。記したのは、立花隆が執筆した「田中角栄研究―その金脈と人脈」で取材班キャップを務めた、白石勝(当時34、のち文藝春秋社長。2015年死去)である。
「今回編集部の求めに応じて、父の書斎を探したところ、クローゼットの戸棚に時代順に並べられた書類の中に、『田中角栄研究』に関連した資料一式の入った手提げ袋がありました」(白石の長男・郷氏)
手提げ袋の中に眠っていた未公開ファイルには、日本における調査報道のさきがけとなった「田中角栄研究」の舞台裏が克明に記されていた——。
立花隆(享年80)が世を去って1年になる。その多岐にわたる業績の中でも、「田中角栄研究」は、立花の名を世間に知らしめた出世作であろう。
ジャーナリストの池上彰さんは、当時NHK入局2年目、松江放送局で警察・検察・裁判所を担当する若手記者だった。
「むさぼるように読みました。なにより衝撃的だったのは、不動産や会社の登記簿といった誰でも入手できる資料を使いながら、噂でしかなかった『田中角栄金脈』をみごとに立証してみせたところです」
発端は編集長田中の相談
この企画がスタートしたのは、11月号が発売されるわずか1カ月あまり前、1974(昭和49)年8月下旬のことだった。編集長の田中健五(当時46)は、9月10日に発売される10月号の校了(雑誌を印刷に廻すリミット)にメドがつき、11月号の目玉となる企画に頭を悩ませているところだった。
エレベーターを待っていると、別の企画の打ち合わせで来社した立花と偶然出くわした。立花は当時34歳。1964(昭和39)年に東京大学仏文科を卒業して文藝春秋に入社するも、2年あまりで退社。東大哲学科への学士入学を経て、この頃はフリーライターとして活発に活動していた。田中が以前編集長をしていた「諸君!」でもよく仕事をしており、気心の知れた間柄であった。
田中編集長は、これ幸いと相談を持ちかけた。
「政界ものがほしいんですがね。田中政権を問うみたいな」
それに対して、立花はこう答えた。
「じゃあ金の集めっぷりをやってみたらどうですか。あの金権の原資がどこから出てくるかを、徹底的に調べてみるんです」
そしてこうも付け加えた。
「取材にものすごい人手と金がかかると思いますけど」
その時田中角栄は総理在任2年が過ぎた56歳。就任当初は、高等小学校卒ながら徒手空拳でのし上がった経歴から『今太閤』と呼ばれ、庶民の熱狂的支持を集めた。しかしその後のインフレとオイルショックによる景気低迷で、支持率に陰りが見えてきた時期でもあった。
2日ばかりして、田中編集長は立花に電話をかけた。
「あれ、お願いしますよ」
掲載される11月号は10月9日発売、校了日の9月26日から逆算すれば取材にかけられる時間は3週間ほどしかない。
田中は、すでに編集部中堅の白石に、取材班キャップを任せることに決めていた。
そして立花の金脈レポートと合わせ、ルポライターの児玉隆也(当時37、翌75年死去)による「淋しき越山会の女王」も一緒に載せる心づもりだった。「越山会」とは、田中角栄の最大の後援会であり、その金の出し入れを差配していたのが、秘書の佐藤昭(のち昭子と改名。当時46)だった。児玉のレポートは、公私にわたる角栄と佐藤昭の密接な関係を描くものだった。
編集部外からの助っ人たち
児玉レポートの担当を任されたのが、若手編集部員の斎藤禎(当時31)だった。軽井沢にあった文藝春秋の寮で、校了明けの遅い夏休みをとっていた斎藤は、白石からの電話を受けた。
「企画会議をやるから、すぐに東京に帰って来いというんですよ。でも編集部に行ってみると、(田中)健五さんと白石さんの間で特集の大枠はすでにできていて、僕はただ言われた通りに動くだけでした。児玉さんの方は、その4年近く前から佐藤昭のことを追いかけていて、十分な蓄積があった。僕は新座市のご自宅に原稿を取りに行くぐらいしか仕事がありませんでした。だから空いた時間には立花チームの手伝いもしていました」(斎藤)
当時、「文藝春秋」編集部は編集長以下総勢10人。当該の11月号の目次を開いてみると、立花・児玉の「田中政権を問い直す」という巻頭特集以外に、「天高し 日本重量級座談会」という小林亜星ら肥満男性を集めた座談会や、丸谷才一の「四国遍路はウドンで終る」というグルメ紀行文に至るまで、合計17本の記事が並んでいる。編集部員は1人あたり最低でも2本程度の特集記事を担当しなければならないはずで、さらには連載小説やグラビア記事も扱う。
だが、この号に限り、白石は立花チーム専従となった。若手3人も応援に駆り出され、児玉チームの斎藤と合わせれば、合計5人。つまり編集部員の半数が特集「田中政権を問い直す」に投入された。田中編集長が、いかに力を入れていたかわかる。
しかし、それでも圧倒的に人手が足りない——そこで集められたのが、編集部外からの「助っ人」たちである。
まず加わったのは、「週刊文春」で仕事をしていたフリー記者2人。彼らは角栄の地元・新潟の後援会関係者などの取材で活躍した。
さらに立花や編集部の個人的交友関係から20~30代の若者4人が参加した。その1人が、のちに『闇の男 野坂参三の百年』(加藤昭氏との共著)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する小林峻一(当時33)である。早稲田大学を中退したあと、塾の講師などを経て、週刊誌の取材を請け負う編集プロダクションで仕事をしていた。現在は郷里の三重県に戻り、悠々自適の生活を送る小林が振り返る。
「週刊誌の仕事をしていたとはいえ、本格的な調査報道ははじめての経験。面白くて、たちまち夢中になりましたね。もっとも『文藝春秋』の名前を出すと取材先は多少丁寧な対応になるのですが、結局は断られることの繰り返し。アポイントを取るのに、とても苦労しました」
さらに変わり種の人物も加わった。立花のツテでやってきた興信所出身者である。
「探偵的な仕事をやってきたからなのか、われわれの知らないテクニックを持っていた。角栄の財産を調べる時、たとえば目白の自宅のある文京区の区役所に行って、『名寄帳』というものを入手する。そこには角栄が区内に所有するすべての不動産のリストが載っています。そこから法務局で不動産登記の過去の履歴を遡っていけば、角栄の財産形成の歴史が浮かび上がってくるというわけです」(同前)
最後には、翌年文藝春秋に入社予定の大学生、岩下仁、神長倉伸義、細井秀雄の3人が駆り出され、謄本取りなどに投入された。日給は3000円ほどだったと、岩下は記憶する。
余談だが日誌等の資料によれば、立花チームの取材費は総額70万円あまり。社外記者、学生スタッフの人件費、立花の原稿料とあわせた総額は300万円弱と推計される。現在の物価水準に直せば600万円程度だろうか。出版界の常識からすれば途方もない額だが、角栄の政治資金から見れば「はした金」だろう。
こうして立花・白石含め、16人の取材班が結成された。しかしその内実は、黒澤明監督の映画『七人の侍』のように、さまざまな場所から集められた「サムライたち」だったのである。
立花部屋は10畳ほど
そんな彼らが、新聞・通信社、放送局のような「組織ジャーナリズム」になしえなかった仕事をいかにして成し遂げたのか? その内幕をさらに詳しく見ていこう。
冒頭に紹介した、白石の残した「取材日誌」の中身を見てみたい。
日誌は9月3日から始まっている。その筆跡は最初のうちは、立花だが、やがてほとんどが白石の文字になっている。こうした日誌を付けることは編集部の決まりではなく、立花が望んで始めたようだが、やがてキャップの白石の仕事になったように思われる。前出の小林によれば、この日取材班の初顔合わせが行われたという。小林のメモには、立花が口にした取材の方向性が残されている。
〈田中派の政治資金
(1)後援会の金——国の発注
(小佐野—— ※編集部注:角栄と「刎頸の友」と言われた政商・小佐野賢治のことと思われる。
(2)個人の金(ウラ オモテ)
土地ころがし 国有財産払い下げ
うわさの真偽をたしかめる……〉
驚くべきことに、ここにはすでに「田中角栄研究」の骨格がほぼすべて示されている。
立花はその直前に、「週刊現代」で、やはり「角栄と金」をめぐる記事を書いていた。そこで詰めきれなかったことを、今度は「文藝春秋」で書くという“再挑戦”の側面があった。
続く4日の日誌には、こんな文字が並んでいる。
〈本棚を入れる。机2。電話二台入る〉
当時、文藝春秋本館2階南側に、「文藝春秋」だけでなく、「週刊文春」など全ての雑誌編集部が並んでいた。その一角、10畳ほどの面積の「第二会議室」が、「立花部屋」と呼ばれ、取材班の拠点に充てられた。
「われわれ取材記者は、日中取材先や法務局などを廻って、夕方『立花部屋』に集合する。そして立花さんを前に、取材結果を報告する。その後も仕事が残っていれば夜食に店屋物やカップラーメンが出て、ひたすら電話をかける、という日々でした」(前出・小林)
そのうち、角栄の資金を計算するために、当時はまだ珍しかった電卓が何台か導入され、取材結果を整理するための黒板、そして冷蔵庫も運びこまれた。白石が残した別のメモには、〈九月四日 夜食(インスタントラーメン 十日分)〉〈九月十一日 夜食(カップヌードル 十五人)〉〈九月十三日 夜食(カップヌードル 十人分)〉とある。
前述のように取材班は「十六人の侍」だったので、そのほぼ全員がカップヌードルをすすった夜もあった。狭い部屋に詰め込まれた若いメンバーたちの熱気が蘇ってくるようだ。
〈いまから考えても、よくみんなあれだけ働けたと思えるほど、超人的に働いた。取材に当たる人は朝から夕方まで取材し、その結果を整理していると、夜の十時、十一時になってしまう。私は毎日昼すぎに起きだし、資料の分析・整理係と仕事をするとともに、取材に出ている人たちから次々に入る電話に応えて指示を出す。夜は、その日の成果の報告を受けて、それを全体の関連の中で位置づけ、翌日の行動予定をたて、メモを残して寝る。寝る時間はだいたい朝になってからだった〉(立花隆「『田中角栄研究』の内幕」より)
しかもこの時期、立花が抱えていた仕事は、「田中角栄研究」だけではなかった。講談社の月刊「現代」の担当者だった森岩弘はこう話す。
「同時期に『現代』で、『血と抗争――中核・革マルの「仁義なき戦い」』という記事を書くことになっていたんです。これは取材ものではなく、中核と革マルのそれぞれの機関紙を数年分読み込んで分析するものでした。われわれは、文春でも記事を書くことになっているとはまったく知らされていません。今考えれば、日によっては文春、日によっては講談社という風に時間を使い分け、ほとんど寝ずにかけもちしたんじゃないでしょうか。まさにスーパーマン的仕事ぶりです」
献金企業に片っ端から電話
さて、「日誌」の9月4日のページには、具体的な取材結果も記載されている。
〈千葉・小林 献金企業取材をはじめる。反応なかなか面白し〉
「千葉」とは、取材班のメンバーだった千葉ひとしのこと。「小林」とは前出の小林峻一だ。
「田中角栄研究」が取り組んだことの第一は、巨額の政治資金を形成した「原資」である、企業・団体から角栄系政治団体への献金の全貌を明らかにすることだった。
「政治資金収支報告書に載っている、角栄系政治団体に年間5万円以上の寄付をした会社に、片っ端から電話をしてあたっていきました。千葉さんと2人で150社ぐらいに電話したでしょうか。ほとんど『どこの部署が担当か分からない』『社長しかわからない話だが、今社長はいない』といった風に逃げられ、ちゃんと話を聞けた会社はごく少数でした」(前出・小林)
しかしその少数の会社の中で、「匿名」を条件にすると、驚くほど赤裸々に政治献金のカラクリを教えてくれたところがあった。
「田中角栄研究」には、こんな証言が載っている。
「(献金をする)メリットはやはり大きいです。ウチのように土木の方が七割も占めていると、公共事業の鉄道、道路、橋などの工事の入札が大変なわけです。そのためには官庁の青写真の段階で情報を入手しなければならない。早く情報をつかんで、その準備をするワケですよ。(中略)こういう利権がらみの献金は早くやめたいんですがね。私は書類に判を押すたびに、この金はあの仕事と関係あるのかな、などと考えイヤになります」(大手建設会社総務部長)
「大きな工事だと入札による競争でしょう。もし、施主が政治家とつながっている場合(公共事業など)、献金しないわけにはいきません。結果的にハナ薬の効用はちゃんとあるんです」(中小建設会社)
中堅土建会社の総務部長代理が、「ハナ薬」についてさらに詳しく解説している。
「(競争入札といっても)実際は談合で事前に決まるのです。一業者だけがんばって、百万円の予算がある仕事を九十万円で落札するということはありません。役所の仕事は、予算いっぱいでやるというのが、業界の鉄則です。業界全体のハナ薬で、予算いくらというのがわかっているから、それを指名業者の話し合いで分けあうのです。たとえば、上越新幹線なんか、計画がきまったときには、もう業者が決まってたんです。しかも工区割りまで決まってたんですよ」
土建業者からの献金の見返りに、「予定落札価格」を漏らす。角栄を総理の座に押し上げた莫大な政治資金の原資は、きわめてワイロ性の高い金だというのである。
ちなみに、角栄は少壮代議士だった昭和23年、炭鉱の国家管理をめぐり反対派の業者からワイロを受け取った疑いで逮捕されている。
新潟と東京をつなぐ上越新幹線(総工費1兆6860億円)は、田中角栄が通産大臣当時の昭和46(1971)年に着工している。また、関東と日本海側を隔てる越後山脈をぶちぬき、高速道路を通す上での最大の難所・関越トンネル(当初予定の建設費630億円)の基本計画が策定されたのは、前年だった。
こうした巨額の公共事業の指針となったのが、角栄が総理に就く直前に政策集として発表した、『日本列島改造論』である。そこには本州四国連絡橋や、北海道や西九州の新幹線など、現在にまで至るインフラ整備計画がずらりと並んでいる。
この『列島改造論』を起草したのが、当時通産大臣事務秘書官(のち総理事務秘書官)だった小長啓一だ。
「田中総理の最大の功績は、インフラを整備し、国民を豊かにしたことでしょう。その反面で、『金権政治』ではないかという批判があるかもしれません。しかし、集めたお金を自分の贅沢のために使ったわけではないのです。あくまで田中派の勢力を拡大するためだった。資金的に派閥の面倒を見て、総理の座をめざすというのは今でも同じ構造でしょう。だから政治にある程度お金がかかるのは仕方がないし、日本に限らずどこの国でもあることだと思いますよ」
小長は、秘書官時代、目白の私邸で毎朝20組ほどの陳情をさばく角栄の姿を見て驚愕したという。
「小さな村の関係者から、『道路を作って欲しい』と頼まれても、『オッ、あそこか。あそこは今年の計画には入ってないから、来年入れてやるよ』と、すべての事情が頭に入っているんです。すぐに私たちを通じて、建設省や大蔵省の局長クラスに話を通し、実現させてしまうんです。しかも、ゴリ押しするわけではなく、自然な形で塩梅してくれる。異動が頻繁にあって地域の実情に疎い役人にすれば、かえってありがたい話なんです」
もっとも角栄には、根廻しを通じて入札前の工事の情報を先に得るメリットがある。また角栄の言うことを聞いた役人には、後で「出世」という褒美が待っていることは想像に難くない。いわば持ちつ持たれつの関係であり、「天才」と呼ばれた田中角栄の人心掌握術は、仔細に見れば、人間の欲望に沿った単純なテクニックだったのではないだろうか。
蓄財プロセスを明らかに
立花の取材チームに話を戻そう。
「田中角栄研究」が取り組んだことの第二は、角栄の蓄財の過程の不明朗さを指摘することだった。
角栄は戦時中に創業した田中土建工業を起点に、成功街道をのぼりつめたとされる。しかし、立花は、角栄の資産をふくらませたのは、「実業」よりむしろ「虚業」だったのではないかと指摘するのだ。
新星企業や室町産業といった、実体のない「ユウレイ企業」を作って土地を買い占め、短期間に巨額の利ざやを載せて転売する——いわゆる「土地転がし」である。
「日誌」の9月10日のページには、〈トヤノ、原発、新潟大敷地 県議(会)、市議会議事録コピー〉の文字がある。
「トヤノ」とは、現在の新潟市中央区にある鳥屋野潟のこと。かつてはヨシの茂る水辺が広がっていたが、多くの水域が埋めたてられ、新潟スタジアムなどのある市街地に変わっている。前述のユウレイ企業が、埋め立て計画に先立ち水面権を買い占め、それが埋立地に変わることで莫大な利益を得ていた。この疑惑は、新潟県議会でも取り上げられていた。日誌には、〈県会、今井(委員会)生テープ トヤノガタをめぐる動き〉とあり、取材班が県議会の録音を入手していたことがうかがえる。
「原発」とは、柏崎刈羽原発のこと。中選挙区時代の角栄の選挙区(新潟三区)のまさにお膝元である。その建設予定地もまたユウレイ企業による土地転がしの舞台となった。
「新潟大敷地」は、県内各地に分散していた新潟大学のキャンパスを移転・統合するための用地のことである。ここもまた事前にユウレイ企業が買い占め、転売益を得ていた。
これら3件に加え、長岡市の信濃川河川敷の買い占めが、角栄がらみの新潟での不明朗な土地取引の代表として知られていた。取材班は、土地登記簿の履歴をこまかく辿ることで、その実態を暴き出していったのである。
数字とデータで勝負
その構図は、公共事業絡みの情報をいち早く仕入れ、金儲けに利用するという意味で、ワイロ性の高い政治献金のあり方と、うり二つだった。
複雑怪奇なユウレイ会社の増殖をわかりやすく読者に示すため、立花はある工夫を行った。
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source : 文藝春秋 2022年5月号