組織論と軍事史の第一人者が敗北の「本質」を語り合う
平和と繁栄は敗戦という悲惨な経験のうえに
大木 今年は太平洋戦争の分岐点となったミッドウェイ海戦から80年という節目の年です。
1942(昭和17)年、日本時間の6月5日、ハワイ・オアフ島から北西へ約2100キロの位置にある、アメリカ海軍の拠点ミッドウェイ島の沖合で、日本とアメリカの機動部隊(空母と航空機を中心とする部隊)の海戦がありました。
野中 日本海軍はアメリカの空母1隻を沈めたものの、大型空母を四隻、航空機も約300機を失う大敗を喫しました。陸戦ではガダルカナル作戦、そして海戦ではこのミッドウェイでの敗北から、日本軍は敗戦への道を歩むことになったのです。
大木 そのミッドウェイ作戦をはじめ、日本軍の6つの失敗を分析したのが、野中さんを中心とした研究者グループによる『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』です。
野中 刊行された1984年、日本には勢いがあり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が飛び交っていましたよ。ただ、その平和と繁栄は敗戦という悲惨な経験のうえに築かれたものでした。
その過ちを繰り返さないため未来への教訓を導き出そう。その思いから、日本型組織の代表である日本軍が、戦時で露呈した組織的な欠陥を分析しました。戦時という非常時には平時に現れない組織の特質が表面化しますから。
大木 そうですね。
野中 いま日本も含めて、世界はロシアのウクライナ侵攻という非常事態に直面しています。この時期、日本や欧米の軍事史に通じている軍事史研究家の大木さんと、改めてミッドウェイ海戦を論じることには、大きな意味があると思います。
大木 恐れ入ります。拙著『独ソ戦』では、住民虐殺や捕虜虐殺も含め数千万人が亡くなったナチス・ドイツとソ連の戦いが、人類最大の凄惨な戦闘であったことを描こうと試みました。これも負の歴史を繰り返してはならないという思いからです。それだけに、ウクライナ侵攻がどこまでエスカレートするのか暗澹たる思いです。
野中 今年、87歳で、戦争を体験した私も同じ思いです。東京・下町の実家は東京大空襲で焼けましたし、疎開先で米軍機の機銃掃射にさらされ、九死に一生を得ました。そんな経験をしているので、破壊されたウクライナの街や避難民の映像を見ると、胸がつぶれる思いです。
しかし、それでも私たちは戦争から目を背けてはいけない。平和を実現したいと望むのであれば、過去の戦争に学び、そこに現れる人間の弱さ、愚かさを直視するリアリズムが必要なのです。
空母赤城の甲板にならぶゼロ戦
海軍の内部に対立があった
大木 では、さっそくミッドウェイ海戦を検証していきたいところですが、大敗を招いた要因は戦闘が起きる前からありました。野中さんもよくご存じのように、戦争を理解するには3つの次元があります。
・戦略……外交・同盟政策や戦争目的・軍事目標の設定など。
・作戦……軍事目標を達成するための戦場における軍事行動。
・戦術……作戦実施の際に起きる戦闘に勝つための方策。
まず指摘しておきたいのは、日本海軍という組織が、開戦前から、戦略・作戦の次元で二元化していたことです。
野中 形式上、海軍では「軍令部」という機関が戦略・作戦を策定し、連合艦隊司令長官に実行を命じることになっていましたね。
大木 はい。しかし現場への指揮命令権は連合艦隊が持っていました。ですから両者が対立した場合、最終的な決定権がどこにあるのか、組織上、明確ではなかったのです。
野中 その対立が開戦前に起きていた。そもそも連合艦隊司令長官の山本五十六は開戦には反対でした。
大木 そうです。しかし戦争を回避する見込みがなくなったので、短期間で手痛い打撃を連続で与え、アメリカ国民の戦争継続の意思をくじく。そして講和に持ち込むという戦略に望みを託したと思われます。
野中 一方で軍令部は日本海軍の伝統的な思想である「漸減邀撃作戦」で対米戦に勝利する戦略でした。「漸減邀撃作戦」とは日米の戦力差が大きいので、太平洋を西へ来攻するアメリカ艦隊に対し、潜水艦や航空機で攻撃して少しずつ戦力を削ぎ(漸減)、日本近海で待ち構えた主力艦隊が決戦を挑んで勝利する(邀撃)というものです。
大木 ところが何度、図上演習(シミュレーション)を繰り返しても、漸減邀撃が成功する目算は得られなかった。しかも第一次世界大戦から総力戦の時代になっており、艦隊決戦で勝負をつけるという戦略思想は完全に時代遅れでした。
野中 それに山本五十六は、漸減邀撃作戦だと長期戦になると危惧していました。そうなると国力の差を克服することはできない、と。
大木 この山本の連続打撃・短期戦論と、軍令部の漸減邀撃・持久戦論が対立したまま、戦争に突入してしまったのです。
山本五十六
ハワイ占領の代替案
野中 開戦からミッドウェイ作戦までの経緯をみていきましょう。ご存じのように太平洋戦争は1941年12月8日の真珠湾攻撃で始まりました。空母と航空機を組み合わせた機動部隊を編成して、空から海を攻める「空海戦(エア・シー・バトル)」は、アメリカの先を行った、戦術の大きなイノベーションといえます。ただし、その後の展開を考えると、この革新性を組織の集合知にできなかった問題があります。
ともかく、第2段作戦として、「ミッドウェイ方面に進出して、アメリカの空母部隊を誘い出し、これを捕捉撃滅する」というミッドウェイ作戦が出てくるわけです。
大木 真珠湾攻撃の後、じつは山本は早期講和のため、ハワイ占領を参謀らに研究させています。これは陸軍の協力なくしては不可能ですが、陸軍が兵を出し渋った。そのためハワイ占領の足がかりとして、海軍主体で実行できるミッドウェイ作戦が浮かんできたのです。
野中 ここで再び軍令部と対立するわけですね。
大木 はい。軍令部はミッドウェイ攻略に反対して、まずはフィジー・サモアを攻略して、アメリカとオーストラリアの連携を封じた上で、邀撃体制を固める策を主張しました。これも非現実的な構想なのですが。結局、ミッドウェイの後にフィジー・サモア攻略作戦を実施することで両者が妥協します。
野中 この交渉の中で軍令部は、アラスカからカムチャッカ半島へ延びる、北太平洋のアリューシャン列島西部にあるアメリカの基地の占領も提案してきました。
大木 日本本土の東側の警戒を強化するという理由で、作戦目標を増やしたのです。日本の海軍研究の第一人者で、大和ミュージアム館長の戸髙一成氏は、「日本海軍にはひとつの作戦に対して、目的をふたつ付ける悪癖があった」と指摘しています。本来の難しい命令に、成功しやすい命令を加え、どちらかが上手くいけば、「この作戦は成功だった」と、評価を曖昧にする。
野中 結局、「ミッドウェイ基地を攻略する」「アメリカ機動部隊を撃破する」、さらに「アリューシャン列島の基地を占領する」と、3つも作戦目標が設定されました。
大木 この作戦次元での目標の多重性が大きな問題になります。
大和ミュージアム
日本本土初空襲の衝撃
野中 しかも、そこに大変な事態が発生しました。アメリカのドゥーリットル飛行隊が、日本本土を初めて空襲したのです。空母ホーネットにB-25爆撃機を乗せて、日本の哨戒圏ギリギリまで近づくという大胆な方法でした。
大木 これに衝撃を受けた日本国内では、ミッドウェイ島を攻略してアメリカ空母を封じるべし、という声が大きくなりました。つまり、この作戦は海軍内部の力関係と駆け引きで決まり、しかも急ごしらえで実行されたものだったのです。
野中 ここから海戦の経緯を検証していきましょう。主力の第1機動部隊を率いる南雲忠一が、旗艦の「赤城」に乗って山口・柱島を出航したのは5月27日のことです。
大木 第1機動部隊は赤城に加えて「加賀」、第2航空戦隊司令官・山口多聞が乗る「飛龍」と「蒼龍」の空母四隻。第2艦隊には小型空母「瑞鳳」。山本五十六の乗る連合艦隊の旗艦「大和」は、空母「鳳翔」を従えて第1機動部隊の900キロ後方に待機。アリューシャン列島には第2機動部隊の小型空母「龍驤」「隼鷹」が向かうという布陣でした。
野中 ミッドウェイ北西の海域に到着した6月5日、南雲艦隊はミッドウェイ基地への攻撃隊を発進させます。
大木 一方のアメリカ海軍は日本の暗号を分析しており、真珠湾を出撃した空母エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンが日本の機動部隊を待ち構えていました。相手を発見したのもアメリカ側のほうが先です。ミッドウェイ基地から全機が発進して、第1機動部隊に先制攻撃をかけた。
ただ、このアメリカの第1次攻撃隊は、日本のゼロ戦によって大半が撃墜されました。パイロットの練度は日本のほうが上だったのです。
「運命の5分間」はあったのか
野中 日本側はアメリカの機動部隊がすでに近海にいるとは思っていなかったようですね。索敵(偵察)機からの報告もなかった。そこで相手の先制攻撃を撃退した南雲艦隊は、ミッドウェイ島への第二次攻撃を行うことを決断。空母出現に備えて待機させていた航空機の兵装を、艦船攻撃用の魚雷等から地上基地攻撃用に転換するよう命じます。
大木 索敵機から「敵ラシキモノ発見」という報告が入ったのは、まさに兵装転換の最中でした。
野中 ここが大きな分かれ目でしたね。南雲はミッドウェイ基地の攻撃を取りやめ、再び艦艇攻撃用への兵装転換を命じます。航空決戦では先制奇襲が大原則ですから、このとき兵装にこだわらず直ちに攻撃隊を発進させるべきでした。
大木 第2航空戦隊の山口多聞司令官は「ただちに発進の要ありと認む」と具申したが、南雲はその意見を容れませんでした。
野中 しかも兵装転換に時間をとられていたところに、第1次ミッドウェイ攻撃隊が帰投してきた。ここで日本側はその収容を優先してしまうのです。まさにそのとき、第16機動部隊を率いるレイモンド・A・スプルーアンスが、空母ホーネット、エンタープライズから出撃させた攻撃隊に襲われたのです。
大木 急降下爆撃で赤城、加賀、蒼龍の空母3隻は被弾、炎上。残ったのは山口多聞が座乗する空母飛龍だけで、空母ヨークタウンを大破させるなど奮戦しましたが、飛龍も急降下爆撃隊の攻撃でとどめを刺されてしまいました。
野中 30年前、私は第1航空艦隊の航空参謀として真珠湾、ミッドウェイ作戦にも参加した源田実さんと対談したとき、なぜ第2次攻撃隊をすぐに出撃させなかったのか訊いたことがあります。
大木 ミッドウェイでの具体的な作戦行動を立案した人物ですね。
野中 その源田さんは、「図上演習なら第2次攻撃隊の発進を優先させただろうが、実戦は違う。帰ってきた戦友たちに『燃料がなくなったら、海に不時着して、味方の駆逐艦に助けてもらえ』とは言えなかった」と述懐していました。
大木 この場面で、「あと5分あれば兵装転換が終わり、攻撃隊が出撃できた」という、いわゆる「運命の5分間」という説がありますね。
これは源田さんと同じ第1航空艦隊の航空参謀で、赤城に乗っていた草鹿龍之介氏が「文藝春秋」の1949(昭和24)年10月号に発表した手記から広まった。
ところが海軍の公式報告書である戦闘詳報を調べても、そんな事実はありません。あまりの大敗に、生き残った海軍の軍人が口裏を合わせて、ギリギリで負けたことにしたのではないでしょうか。
致命的だった兵力の分散
野中 そもそもミッドウェイ作戦が浮上したとき、連合艦隊にも異論があったようです。源田さんも「時期尚早だ」として反対したと言っていました。猛将として知られる山口多聞ですら、延期したほうがいいという意見だったとか。
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source : 文藝春秋 2022年7月号