優れた作品は複数の読み解きが可能だ。アルベール・カミュの『ペスト』が1947年に上梓されたときは、ナチス・ドイツによるフランス支配という文脈で読まれた。1950年にこの小説の日本語版が刊行されたときも太平洋戦争中の暗黒時代を思い浮かべて読まれたのだろう。1969年に新潮文庫に収録された頃、当時の大学生は、バリケードで封鎖された大学の状況と重ね合わせてこの小説を読んだと思う。そして現時点では、新型コロナウイルスとこのウイルスによって引き起こされる肺炎が世界的に猛威を振るっている文脈で読まれている。
小説の舞台は、フランス植民地時代のアルジェリアの港湾都市オランだ。時代は、194*年。下1桁を特定していないことが重要だ。44年8月まで、アルジェリアは親ドイツの「フランス国」(ヴィシー政権)に抵抗するシャルル・ド・ゴールを中心とするフランス共和国臨時政府の拠点だった。それ以後は、フランスの植民地に戻る。年を特定すると、歴史的出来事との文脈で読者がこの小説を読むことになる。それを避け、テーマを普遍的にするためにカミュは、あえて194*年の出来事としたのだと思う。
この物語の語り部は、医師のベルナール・リウーだ。発端は、些細な変化だった。新型コロナウイルスによる肺炎が、当初は季節性インフルエンザと見なされたのに似ている。
〈四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで1匹の死んだ鼠(ねずみ)につまずいた。咄嗟(とつさ)に、気にもとめず押しのけて、階段を降りた。しかし、通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない場所にいたという考えがふと浮び、引っ返して門番に注意した。ミッシェル老人の反発にぶつかって、自分の発見に異様なもののあることが一層はっきり感じられた。この死んだ鼠の存在は、彼にはただ奇妙に思われただけであるが、それが門番にとっては、まさに醜聞となるものであった。もっとも、門番の論旨ははっきりしたものであった――この建物には鼠はいないのである。医師が、二階の階段口に一匹、しかも多分死んだやつらしいのがいたといくら断言しても、ミッシェル氏の確信はびくともしなかった。この建物には鼠はいない。だからそいつは外からもってきたものに違いない。要するに、いたずらなのだ〉
鼠の死骸はいたずらではなかった。ペストで死んだのだ。ミッシェル老人もペストの典型的症状を示して死ぬ。市内で死者が出始めた。
住民不安を恐れる行政
医師たちには、この感染症がペストであることは明白だったが、行政当局の動きは鈍い。県庁は法令を張り出したが、伝染病であるかは分からないが、悪性の熱病が発生した、というものだった。住民が不安に陥るのを恐れたのだ。新型コロナウイルスに対する各国政府の対応に似ている。法令にはこう記されていた。
〈医者の診断があった場合は、家族のものはこれを義務的に申告し、その病人を市立病院の特別病室に隔離することに同意しなければならないことになっていた。これらの病室は、それにまた、最小限度の期間内に最大限度の治癒の機会をもって患者を看護できるよう設備されているのであった。幾つかの付記条項では、病人の部屋と運搬の車とに強制的な消毒の義務が課されていた。その他の点については、近親者に衛生上の警戒を守るよう勧告するにとどめてあった〉
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source : 文藝春秋 2020年5月号