宿主を殺さずに生きていく利口な寄生体/『アンドロメダ病原体』マイクル・クライトン

ベストセラーで読む日本の近現代史 第81回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ニュース 読書

 新型コロナウイルスによる感染症の拡大によって世界は深刻な危機に直面している。4月7日夕刻、安倍晋三首相は緊急事態を宣言した。その後の記者会見で安倍首相は、〈最も恐れるべきは恐怖それ自体です。SNS(会員制交流サイト)で広がったデマによって、トイレットペーパーが店頭で品薄になったことは、皆さんの記憶に新しいところだと思います。ウイルスという見えない敵に、大きな不安を抱くのは、私も皆さんと同じです。そうしたとき、SNSは本来、人と人の絆を深め、世界の連帯を生み出すツールであり、社会不安を軽減する大きな力を持っていると信じます。しかし、ただ恐怖に駆られ、拡散された誤った情報に基づいて、パニックを起こしてしまう。そうなると、ウイルスそれ自体のリスクを超える甚大な被害を、私たちの経済、社会、そして生活にもたらしかねません〉(4月7日「産経ニュース」)と述べた。

 新型コロナウイルスに関しては、ウイルス自体の危険性よりも、それが人々の心理に及ぼしている影響の方が深刻だ。この点に関して、ロシア政府が事実上運営するウエブサイトに心理学者の興味深い見解が掲載された。〈ロシア科学アカデミー心理学研究所の上級研究者アナスタシア・ヴォロビオヴァ氏はこのテーマは作為的にあまりに大きな焦点を当てられていると考えている。/「恐怖を生む要因は複数あります。公式的、非公式的マスコミが様々な情報発信をしている。これによって公式的なマスコミへの不信感が生まれ、情報の一部を作為的に隠蔽しているのではと勘繰られてしまう。医療、生物学に明るくない人はいつもいるわけで、非公式的なマスコミからの情報の正誤を吟味できない。カタストロフィーをテーマにした映画も恐怖症をあおってしまう。映画は謎の危険なウイルスに大規模感染してしまう様子をまことしやかに描いているからだ。」〉(2月15日「スプートニク」日本語版)

 感染症の恐怖で世界の人々の心理に影響を与えた作品の一つがマイケル(マイクル)・クライトンのSF小説『アンドロメダ病原体』(1969年)だ。映画化、テレビドラマ化もされている。クライトンは、映画「ジュラシック・パーク」(1993年)の原作者としても有名だ。『アンドロメダ病原体』は小説であるが、ところどころに事実を散りばめ、この病原体により人類が危機に瀕した5日間についての極秘文書「アンドロメダ報告書」という体裁を取っている。クライトンは医学部出身で、感染症に関する専門知識があるので、ノンフィクションではないかと錯覚させる内容になっている。

ウイルスとの共存

 米国が宇宙から病原体を得ることで生物兵器を製造しようとするスクープ計画を進めていた。人工衛星「スクープ7号」が病原体をカプセルに採集してアリゾナの砂漠にある小さな町ピードモントに着陸する。カプセルをこじ開けた者がいたために、町がほぼ全滅してしまう。「アンドロメダ病原体」と名づけられたこの細菌は、人間の血液を瞬時に凝固させ死に至らせる。ただし、アルコール依存症の老男性と生後2カ月の乳児だけが生き残っている。アンドロメダ病原体に感染し、隔離された治療室にいるチャールズ・バートン(病理学者)にマーク・ホール(外科医)がマイクでアンドロメダ病原体の謎を解き明かす。そのやりとりをジェレミー・ストーン(ノーベル賞を受賞した細菌学者)が聞いている。

〈彼はマイクをとりあげた。/「バートン、こちらはホールだ。解答をつかんだぞ。アンドロメダ菌株(ストレイン)は、限られたpHの範囲内でしか生長しない。わかるか? きわめてせまい範囲だ。だから、酸血症かアルカリ血症になれば、心配はなくなる。それには、呼吸によるアルカリ血症を起こせばいい。つまり、呼吸をできるだけ速めればいいんだ」/バートンがいった。「しかし、これは純酸素だぞ。過呼吸を起こして、倒れてしまう。いまでも、すこし目まいがするぐらいだ」/「いや。いま、ふつうの空気に切りかえるよ。さあ、呼吸をできるだけ速めて」/ホールはストーンをふりかえった。「彼に炭酸ガスの多い空気を与えてくれ」/「しかし、炭酸ガスが生長を促進させるんだぞ!」/「知ってる。だが、血液のpHが不利な場合は話がちがう。いいかね、そこが問題なんだ――空気には関係なく、血液に関係がある。だから、バートンの血液を、この生物に好ましくない酸平衡に保たせればいい」/ストーンはとっさに理解した。「そうか、あの子は泣きわめいていた」/「そうなんだ」/「そして、あの老人はアスピリンによる過呼吸」/「そう。おまけにステルノを飲んでいた」/「そして、ふたりとも酸塩基平衡がめちゃくちゃになっていたわけか」とストーン。/「そうだ」とホール。「ぼくの失敗は、酸血症にとらわれすぎたことだった。あの赤んぼうがどうして酸血症になるのか、いくら考えてもわからなかった。もちろん、あの子はもともとそうでなかった、というのがその答だ。あの子はアルカリ性に――酸の過少状態になっていた。だが、それでよかった――酸が多くても少なくても、どちらでもいい――アンドロメダの生長範囲さえはずれていれば」〉

 アンドロメダ病原体は、突然変異によって人間には無害になった。しかし、プラスチックを腐食するようになった。そして、最終的には大気圏外に移動していくと予測された。こうして人類は危機を脱したのである。

 この小説には、感染症と人間の関係についても示唆に富んだ記述がある。

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source : 文藝春秋 2020年6月号

genre : ニュース 読書