中庸と狂狷

巻頭随筆 創刊百周年記念企画 芥川賞全選考委員特別寄稿

松浦 寿輝 作家
エンタメ 芥川賞

「文藝春秋」が創刊百周年を迎えるという。激動の百年をよくも生き延びてきたものだとまずは嘆息せざるをえない。創業者菊池寛の「思想」を営々と受け継いできた数多の人々の、弛みない努力の総体、そしてその持続によって成っためざましい大業と言うべきだろう。

 思想家と呼ばれることなどまずない菊池の「思想」を云々するのはやや奇異と見えるかもしれないが、作家として、ジャーナリストとして、経営者としての彼が、その一身に体現していた「非凡なる平凡」への揺るぎない信は、やはり強力な「思想」と呼ぶほかない何かだったと思う。それへの讃嘆を何とか言葉にしようとしたのが小林秀雄である。

『作家の顔』には菊池寛についてのエッセイが四篇も収められており、小林がこれほど繰り返し論じた日本の同時代作家は他にない。小林の敬愛は何よりもまず菊池の人となりに向けられたものだが、そのオマージュはしかし、作家としての菊池への評価は措くとして、といった留保付きのものではなかった。四篇中もっとも早く、菊池の生前に書かれた「菊池寛論」はむしろ主に作品を論じたもので、その「通俗文学」「人間的興味の小説(ヒュウマンインタレスト・ストォリィズ)」の尊重されるべき所以が縷々丁寧に説かれている。

 その論の核心は、先に触れたように「非凡なる平凡」というパラドックスに尽きているが、もとよりこれは、威勢の良い啖呵を切りつつ「天才の宿命」を謳い上げる小林一流の批評の歌には、本来馴染みにくい主題である。迂回に迂回を重ねるような書きぶりがそこから生じ、しかしそのもどかしげな口調がむしろわたしには面白い。ランボー、実朝、モーツァルト、ゴッホなど、天才の悲劇を抒情的に演出することを本領とした小林だが、他方で彼は、「作家凡庸主義」を標榜した菊池寛の魅力に鋭敏に反応する感性の持ち主でもあった。これは小林の知性の度量の広さ、深さの証左でもあろう。

 何しろ小林秀雄は人間臭い批評家だった。吉本隆明にも江藤淳にもあったのに、その後の日本の文芸批評の世界ではすっかり払底してしまったこの「人間的興味(ヒュウマンインタレスト)」がわたしには懐しく、「吉田茂」「ゴルフの名人」など小林の手になる人物スケッチの小品は、今もときたま読み返して愉しんでいる。

 菊池の死の直後に発表された「菊池さんの思い出」もそんな心温まる小文の一つだ。「悲しいかな、二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである」——そんな軽侮の念があるとき不意にかき消え、菊池に心を開くようになった経緯がそこには率直に語られている。小林の批評が人間臭さを帯びるようになっていった一契機として、菊池の人物と行動が及ぼした感化もあったかもしれない。

 小林は後年しきりと「常識」や「中庸」について書くようになる。これは彼が菊池寛のうちに見出した逆説的な非凡さと直結する主題であり、また雑誌「文藝春秋」の百年の歩みを支えつづけてきた思想そのものでもあろう。「中庸」とは必ずしも、毒にも薬にもならないほどほどの平均値のことではない。「論語」には、「中行を得て之に与(くみ)せずんば、必ずや狂狷か」という謎めいた一文がある。「中庸(中行)」に与しえなかった場合は、むしろ「狂」や「狷」といった極端に就くほうがましだというのだ。

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source : 文藝春秋 2023年1月号

genre : エンタメ 芥川賞