クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』が3月29日より日本で公開され、大ヒット上映を続けています。
「原爆」をテーマとしながらも、「被害側」ではなく、原子爆弾の開発を主導した物理学者という「加害側」の人物を主人公としていることもあり、日本公開までには多少の紆余曲折があった本作。また、作品には「被害側」の視点があるか、と聞かれれば、それはありません。作中では人類史上初の核実験となった「トリニティ」のシーンは大きな臨場感を持って描かれますが、広島・長崎への原爆投下のシーンはなく、セリフとして説明されるだけです。
では、本作は「原爆を肯定する」映画なのか。そう聞かれれば、違うと思います。
私が『オッペンハイマー』を見て強く心に残ったのは、オッペンハイマーを演じるキリアン・マーフィの表情でした。
日本公開に先駆けて、昨年夏にアメリカで『オッペンハイマー』を鑑賞した東浩紀さんは、作品は「間違う人間」としてオッペンハイマーを描いたと評しています(「文藝春秋」2023年10月号所収「問題作『オッペンハイマー』を観て来た」)。実際に、原爆の開発のみではなく、作中で重要な人物となる政治家ルイス・ストローズとの関係の悪化や、ふとしたきっかけからの精神科医との不倫など、いくつもの場面で彼は「間違え」、それが自身の首を絞めていきます。その都度、画面に現れるマーフィの苦悶の表情は印象的で、かつ、そこには複雑な憂いが満ちていました。
芝山幹郎さんは作品における演技について、「明晰で鋭敏で繊細でいながら偏執狂的な側面が強く、評価をめぐって世に物議を醸した物理学者の肖像を、マーフィは重層的に彫り上げていた」(「文藝春秋」2024年5月号所収「『不吉な化学記号の解読』キリアン・マーフィ」)と評していますが、それも映画を複数回にわたって鑑賞したあとでは、すとんと心に落ちてきました。とくに、原爆の開発を悔いる彼の表情は印象的で、そうした積み重ねによって、戦争や核に対する、ノーラン監督の拒絶の意思がたしかに伝わってきました。
なお、ノーラン監督と言えば、「時系列の操作」も印象的です。『オッペンハイマー』でも、過去と現在が幾度も交錯するため、1度の鑑賞だけでは細部までは把握できず、2度、3度と鑑賞することで、ようやく理解が進んできました。
先日、デジタルリマスターでノーランのデビュー作『フォロウィング』を見ましたが、こちらの時系列は『オッペンハイマー』以上に複雑で、初見では歯が立たず。『オッペンハイマー』とあわせて、また劇場に足を運ぼうと思っています。
(編集部・若林良)
source : 文藝春秋 電子版オリジナル