著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、永田淳さん(「青磁社」代表・歌人)です。
母が私を詠んだ歌は全部で500首ほどもある。私の密かな自慢はこれほどまでに短歌に詠まれた息子は古今東西探しても私以外にはいない筈で、それはつまり世界一短歌に詠まれた息子である、ということである。
母の第7歌集『体力』の「派兵」と題された一連から取り上げてみる。
二階より息子下りくる午前二時コーヒーカップの耳ぶらさげて
言ひつのり絶句せりけり「母さんは馬鹿だ」派兵論議のさなか
派兵など他人(ひと)ごととしてゐるこの息子器用に柿むきふたつ目を食ふ
イラク軍が突如クウェートに侵攻し、アメリカを中心とする多国籍軍への自衛隊の参加を日本が求められていた湾岸戦争前夜である。
勉強に倦んだ私がフラッと2階から降りてきたところに、自衛隊派兵に関する記事を見せられて「あんたこれどう思う?」と訊かれた。どういう話の流れだったか「自衛隊はある種の必要悪で、災害時の救援などには必要なんじゃないか」と言ったのだった。
根っからの戦争嫌いで、自衛隊の存在すら認めていない母だったからこの一言で俄然、火がついた。母の論拠は、憲法に軍備の不保持を謳っているのに自衛隊が存在すること自体がおかしい、という一点に尽きた。それに対して私が「じゃあ、雲仙普賢岳のような火砕流の救援活動は誰がするんだ」と言い合いになり、「母さんは馬鹿だ」と叫んだようだ(ようだ、というのはつまり、私は覚えていない)。
今になってみると、私の方が随分と醒めたことを言っていたなと思う。
母は常に直情的で、真っ直ぐな人間だった。自分が「こう」と思ったら「こう」で、それが間違っているかどうかは関係なかった。その思い込みに理屈はなかったけれど、確固たる信念はあった。だから「ごちゃごちゃ言わんでも、いいもんはいい、悪いもんは悪いんです」が歌を評するときの口癖でもあった。そしてその直感は多くの場合、正しかった。
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source : 文藝春秋 2020年7月号
genre : ライフ