日本に帰国してから一カ月が過ぎようとしている。この一カ月の間にさまざまなことが起った。オバマは再選された。中国の新政府もスタートした。日本は、総選挙に向って走り始めている。これら以外でも、原発の事故を契機に決定を迫られているエネルギー政策や沖縄をめぐってくすぶる防衛問題等の難問が、日本中をゆり動かしている。いちいちまじめに考えていてはそれだけでストレスが貯まると思うくらいだ。それで今回は問題提起、平たく言えば私の疑問、を列記するというやり方で書きたい。
その一つは、民の声は神の声か、という問題だ。
神の声であるからには、絶対的に正しい声、ということになる。メディア上に踊る「声をあげ始めた民衆」という言葉も、これらの人々の正直な想いから出た声である以上は正しい声ということになり、なによりもまず声をあげた人々が、自分たちの考えこそが正しい、と信じこんでいるかのようだ。そしてマス・メディアも、「正しい」という点では一致している。
だがほんとうに、民の声は常に神の声であったのか。民意は常に、正しかったのか。
中世の西欧全体をゆるがせた一大事件であった十字軍遠征も、そもそもの始まりは民意から起ったのだった。聖地イェルサレムを異教徒イスラムから奪回せよとの神の声を聴いたと信じたキリスト教徒たちが、「神がそれを望んでおられる」の雄叫びとともに、大挙して中近東に押し寄せたのだから。実際には神は、何も言わない。言ったと思いこんだ人々が、それを実行に移したから十字軍は始ったのである。しかも、民意によって始った戦争は、この十字軍以外にも歴史上数知れない。純粋の民意からとは言えない場合でも、戦争をしたい誰かが、民意をあおったのである。イラク戦争だって、始めのうちはアメリカ人は賛成だった。それが反対に変わったのは、戦況が悪化したからにすぎない、とする人さえいる。
疑問の二。決まらない政治の責任は、決められない政治家たちにある、という有権者の怒りは、私でも正当だと思う。しかし、なぜ政治家たちは決められないのか、ということにまで考えをめぐらせないかぎり、この問題は解決しないのでないか。
それは国政の担当者たちが民意を尊重しすぎるから起るのではないかと私は想像しているが、なぜ「しすぎ」になってしまうのか。私の想うにはそれは、国政担当者たちが「民意」という言葉を数多く口にしているうちに、「民意」を逃げ口上にするのに慣れてしまったからではないだろうか。なにしろ、民意を尊重すると言っていればマス・メディアからの評判も良く、また有権者からは、自分たちの意見に耳を傾ける民主的な政治家と思われるので、当然ながら票も集まる。
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source : 文藝春秋 2013年1月号