新人発掘、女性活用……部数激減から再び上昇気流に
昭和2年7月の芥川龍之介の自殺は菊池寛に大きな衝撃を与えた。菊池は芥川よりも自分が先に死ぬと信じ、「文藝春秋」は彼に託そうと思っていたからである。
げんに、この事件に先立つ大正13年11月13日未明、菊池寛は狭心症の発作に襲われ、回復直後に芥川龍之介に宛てた遺書をしたため、後事を託している。また、「中央公論」大正14年2月号に発表した「わが交友録」では「芥川龍之介。交友十年、後事を扽すべし」とはっきりと記している。自分は太り過ぎのために心臓発作で50前には死ぬだろうという予感から、身辺を整理しておこうと感じていた矢先のことだったのだ。
だが、自分が生き残った以上は芥川の遺族の面倒を見つづけるためにも「文藝春秋」の基盤を強固にしていかなければならない。しかし、現状はと見ると、新雑誌の創刊や『小学生全集』の発刊などで戦線が拡大し、財政的にかなり危機的な状況にあった。
たとえば「芥川龍之介追悼号」の昭和2年9月号の編集後記では「芥川の死は、本誌にとつても可なりな打撃である」と書いた後、こんな愚痴が披露されている。
「今月の末あたり、多分大阪ビルデイングへ引越す。こゝ[旧有島武郎邸]ではあまり經費が重むので時節柄緊縮したいのと、こゝでは社員が怠けて仕方がないからである」
大阪ビル(正式には大阪ビル第一号館)は昭和2年7月に竣工した代表的な昭和建築の一つで、現在、日比谷ダイビルが建っている千代田区内幸町1丁目2番地にあった。設計は渡辺節、施工は竹中工務店だが、外装デザインを担当した村野藤吾がビルの外壁に配した異様な怪物(鬼、豚、羊、小鳥、鹿、一角獣、鯨、ライオンなど。日比谷ダイビルの壁面に保存されている!)の意匠が人目を引くビルであった。近くには鹿鳴館がまだ残っており、日比谷公園、東京放送局、都新聞もある、東京の一等地といえた。文藝春秋社はこのビルの2階211号室に9月に入居したのである。菊池寛の目論見は、環境がビジネスライクなものに変われば社風も応じて変化するだろうというものだったが、その目論見はレインボー・グリルというダイニング・サロンが地下に開業したためあっさり外れることになる。
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source : 文藝春秋 2023年7月号