文藝春秋の生みの親であり、「父帰る」「真珠夫人」など、戯曲や小説の名手としても名を馳せた菊池寛(1888~1948)。知られざるその素顔を、孫の菊池夏樹氏が綴る。
どのくらい前だったろう! 菊池寛の妻、私の“お婆ちゃん”が生きていた頃だ。お婆ちゃんに直接、お爺ちゃんの話を訊いてこなかったことに気づいた。何せ、私と祖父は、この世で2年弱のすれ違いだったのだから。今のうちに訊いておかなきゃと、直ぐに彼女の家にとんで行った。
ねぇ、ねぇ、お婆ちゃん、お爺ちゃんのエピソード何か覚えていない? 私が訊くと、彼女は、渋い顔をした。そして何かを思い出したように、なおも渋い顔になった。
「あんたのお爺ちゃんは、悪いひとよ! だってね、仕事でちょっと人に会ってくると言って運転手さんに車の用意をさせてね、家を出るでしょ! 10分も走ると“ここでいいよ”と言って、マントと帽子をかぶって。変装したつもりなのね、そこに待たせていたタクシーに乗り換えるのよ。男のひとって馬鹿よね、3、40分走った処に生垣で囲われた平屋の家があって、呼び鈴を押すと女の人が格子戸を開けるのよ、覚えているのは、それだけ」。お婆ちゃんは渋い顔のまま溜息をついていた。
菊池寛
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source : 文藝春秋 2022年1月号