「怖い役も心細げな役も」マッツ・ミケルセン

スターは楽し 第207回

芝山 幹郎 評論家・翻訳家
エンタメ 映画

 眼から鮮血がしたたり落ちる。想像するだにぞっとするが、それが実在する病気だと知ったのは、『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)を見たあとだった。知ったかぶりをして続けさせていただくと、病名はヘモラクリアという。涙腺にできた腫瘍などが原因で、涙に血が混じるらしい。恐ろしい。

 マッツ・ミケルセンが扮するル・シッフルは、この映画のなかで左眼から鮮血を流していた。テロ組織に渡りかねない1000万ポンドをめぐって、ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)とル・シッフルがポーカーで勝負する場面だ。

 衝撃的な映像だったが、マッツ・ミケルセンという役者も、このシーンひとつで世界にその名を轟かせた。映画自体が「娯楽水準の高いブロックバスター」という特性に恵まれていたのも頼もしいが、ミケルセンの存在は、サスペンスの電圧を一気に上昇させるものだった。

マッツ・ミケルセン ©Backgrid/アフロ

 ご多分に漏れず、私もこの場面で彼の名を覚えた。麻薬の密売人に扮した映画デビュー作『プッシャー』(1996)を輸入盤のDVDで見たのは、少しあとになってからだ。

 ミケルセンは、1965年11月にコペンハーゲンで生まれた。父親は銀行員。本人は若いころ、体操選手やダンサーを目指していた。俳優に転じたのは30代に入ってからで、立派な骨格や恵まれた身体能力に加えて、役柄を鋭く読み抜く知性があった。

 顕著な例は、故国デンマークの異才トマス・ヴィンターベア監督と組んだ2本の佳篇だろう。1本は、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞に輝いた『偽りなき者』(2012)、もう1本はアカデミー賞の国際長篇映画賞を獲得した『アナザーラウンド』(2020)だ。

 ミケルセンは、どちらの作品でも教師の役を演じている。前者では、閉鎖的な村で児童虐待を疑われた幼稚園の教師。後者では、とある試みによって、著しく低下していた仕事のパフォーマンスや生活のテンションを向上させようとする高校の歴史教師。

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source : 文藝春秋 2023年9月号

genre : エンタメ 映画