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4月が来ると思い出す、一生懸命に生きた木村拓也の物語

文春野球コラム ペナントレース2019

2019/04/11

 2019年3月29日、プロ野球とともに『文春野球コラムペナントレース2019』が開幕。45才のオールドルーキーである俺が手にした最高かつ感無量の舞台。熟考の末に初回の題材を決定したのだが、登板日が迫る中、どうしても避けられない独特の“体質”が表面化。結果的に俺は、自身が持つその体質にあっさり飲み込まれることに……。それは「4月7日」という日付けだ。

忘れられないあの日のこと

 2010年4月2日。俺は巨人戦を観るため広島に帰省していた。開門時間から入ってビールを飲みながら仲間と話したり両チームの練習風景を見たりしていたのだが、ここで事件は起きる。胸騒ぎが先だったか、ざわっ……という空気の変化が先だったか。ふとグラウンドに目を向けると、ホームベース付近に巨人の選手が集まっていたのだ。姿こそ見えないが、その中心にいる「誰か」に「なにか」が起こったことは容易に分かった。ノックの打球が選手に当たったのか、あるいは交錯でもしたのか。いずれにせよただごとではない空気。周囲の人たちが一斉に携帯を取り出し、情報収集を開始。ほどなくして「拓也だ!」という声。

 ……えっ? タクヤ? たくや? 木村拓也? どういうこと? わずかに見える足。気づけばカープの選手も集まっている。まさか、まさか、倒れているのが拓也なのか? そうこうしている内に「人工呼吸をしよる!」。次いで「AEDが来た!」。やがて救急隊が到着し、担架に乗せられた拓也は救急車で運ばれていった。当たり前のことだが、球場に大きく響き渡ったサイレンの音は、球場から距離が離れるに従って小さくなる。しかしそれに反比例するかのように、言葉にならない不安感、もっと言えば恐怖に近い感覚が大きくなっていったのを覚えている。

 5日後の4月7日。拓也は帰らぬ人となった。哀しかった。悔しかった。受け入れたくなかった。そしてその年から俺にとって4月7日は特別な日となり、なにをしていても、どう過ごしていても必ず数日前から思い出すように……。冒頭で書いた“体質”とは、まさにこのこと。シーズンが開幕すると無意識に思い出し、4月7日が来るとツイッターなどで哀悼の意を書く。今回、自分の初登板が4月11日と決まり、違う題材を考えてはいたが、こうして野球について書く場を与えられ、登板日のタイミングを考えた時、どうしても“体質”に逆らえず、木村拓也という男について書きたくなったのだ。

2001年9月にはタワーレコード広島店のポスターに登場 ©タワーレコード広島店「キムラタクヤ・ゴーズ・トゥー・タワレコ」

想像もしなかったチームへの移籍

 1990年オフにキャッチャーとして日ハムにドラフト外で入団。任意引退選手扱いを経て外野手に転向し、1994年オフにトレードでカープに移籍。11年もの間"カープのキムタク"としてチームに貢献してくれ、2001年には並み居る主力選手を差し置いて「タワーレコード広島店」のオープンキャラクターに。ずっとカープにいてくれると思っていたし、日ハムでのユニフォーム姿を見たことが無かったということもあって、俺の中での彼は完全な生え抜き選手だった。しかし、若手起用というチーム方針により、出場機会を求めた拓也は自身二度目のトレードで巨人に移籍する。えっ。巨人? 出場機会を求めてるのに、なんで? 巨人で出場機会を与えてもらえるの? 納得できなかった。大好きな拓也。下手したら、もうまともに見られないまま引退するんじゃないのか。俺は勝手に苛立っていた。

巨人時代の木村拓也

 しかし。その後の活躍は皆さんもご存知のとおり。カープの時と同じくユーティリティープレイヤーとしてチームを支え、若手に頼られる存在になり、プロ入り最高年俸も達成。最初は巨人に行ったことに納得できない自分がいたのに、勝手に出場機会すら心配していたのに、当時まだ弱小だったカープから移籍した小さな選手は巨人で躍動した。そして2009年9月4日には10年ぶりにキャッチャーとしてマスクをかぶり、伝説とも言えるキャッチングを見せた。ベンチに戻る拓也を迎え入れ、何度も何度もその背中を叩いて拓也を讃えた原監督。過去にカープを去った江藤、金本、新井のようなホームランバッターじゃない。億単位の年俸をもらう選手ではない。その拓也が巨人の救世主となり、すべての野球ファンに感動と興奮を与えた。いつしか木村拓也という選手は、カープファンの「誇り」になっていた。

 俺は、神様という存在を素直に信じることができない。野球で言うなら、野球の神様。もし本当にいるのであれば、俺の大好きな前田智徳がケガをすることは無かったはずだ。でも、拓也の野球人生を考えた時、言い方は悪いかもしれないが、すでに彼の“最期”というものが決まっていて、それに目を向けた野球の神様が、いつも笑顔で全力プレーをしていた彼に「頑張った君に最高の野球人生を捧げよう」。そう決めて巨人に行かせてくれたのではないか。いつしか本気でそう思うようになったのである。日本プロ野球界で最も有名な名門チーム。野球選手なら誰もが一度は憧れたであろう伝統のユニフォーム。拓也はそのチームで光り輝き、当時のカープにいたら叶うことのなかったリーグ優勝(3回)、さらに日本一(1回)まで経験した。しかもその栄冠の「戦力」だった。野球選手として、これほど幸せなことはないのではないだろうか。

 巨人での引退セレモニー。彼は、果てしなく爽やかな、一切の不純物がない笑顔で「本当に充実した4年間でした」と言った。かつての自分なら「拓也。巨人なんてたった4年じゃないか。カープのことも言ってくれよ」。そう思ってやきもちを焼いたかもしれない。でも、そんなことは一瞬たりとも思わなかった。そこにある清らかな姿が、カープがどう、巨人がどうといった邪念をすべて洗い落としてくれたのである。

ユーティリティ選手として活躍した木村拓也