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日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた

『まんぷく』からは見えてこない“妻妾同居”秘話

2019/03/30

 台湾に戻った金鶯は、中国大陸から台湾に進駐した国民党軍の軍人と再婚するが、1年ともたずに離婚。母子は金鶯の実家がある台北の万華や、百福の故郷で正妻・綉梅が暮らす嘉義の朴子に身を寄せるものの、とにもかくにも百福からの仕送りだけでは戦後の混乱期に2男1女を育てるには十分ではなかった。

 金鶯は農家から仕入れた野菜を市場で売るなどして生計を立て、一時は台湾地場メーカーの中国電器が製造する『東亜』ブランドの電球や照明器具を、日本に横流しして稼ぐこともあったらしい。

「チキンラーメン」大ヒットの名声は台湾にも

 ただ百福は金鶯と別れる時に「手切れ金」と「慰謝料」を渡しており、戦後の混乱期も金鶯への仕送りを怠らなかった。美和も学資の援助を得て、当時の台湾女性としては珍しく、私立女子校の台北市天主教静修高級中学で学び、さらに国立台湾芸術専科学校(現・国立台湾芸術大学)へ進んでいる。

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 台湾芸専在学中は、百福の計らいで東京の美大に留学する話が浮上したこともあったという。東京行きは諸事情から実現しなかったが、留学計画をきっかけに百福との交流を細々と再開した美和には「父に会いたい」という思いが日増しに募っていく。ちょうど百福が1958年に「チキンラーメン」を大ヒットさせ、日清食品を右肩上がりに成長させていた頃で、その名声は当然の如く台湾にも知れ渡っていた。

 だが、金鶯は日頃から子供らに「お父さんには別の家庭がある。こちらから迷惑を掛けるようなことをしてはいけない」ときつく戒めていたため、美和が自ら百福へ積極的に手紙や電話をするようになったのは、金鶯が双極性障害を患った末に52歳で死去した1971年以降のことだという。

日清食品の東京本社(新宿区) ©時事通信社

台湾社会では長く一夫多妻が許容されていた

 台湾に正妻の綉梅がいながら大阪で金鶯と家庭生活を営み、しかも自身の浮気が原因で金鶯と別れた直後に、正妻との婚姻関係を解消しないまま仁子と所帯を持った百福──。現在の道徳観念では到底許されない行為だが、台湾社会では長く一夫多妻が許容されていた事実がある。日本統治時代になって一夫一妻が原則とされたものの、戸籍上は大房(正妻)を「妻」、二房(第2夫人)や三房(第3夫人)なら「妾」と届け出ればよく、特に重婚罪に問われることもない、おおらかな時代が戦後の1970年代まで続いた。

 金鶯も嘉義県の戸籍には「妾」と記されており、今の感覚なら「内縁以上、正妻未満」といった位置付け。台湾では二房と呼ばれたようだ。

 もっとも、百福と日本人である仁子との婚姻については2005年5月27日、大阪家庭裁判所が「黄綉梅との婚姻関係が法的に解消されていず、重婚であり無効」との一審判決を下している。

 綉梅は、夫の百福と息子の宏寿が相次いで死去した2007年の時点で存命と報じられた。美和によると2011年、台北南郊にある新北市新店区の高齢者施設で104歳の天寿を全うしたという。

(文中一部敬称略)

日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた

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