正妻が「どうか彼と一緒に大阪へ行ってあげて」
百福と金鶯の馴れ初めは、ともに台湾へ帰省していたふたりが台北の街頭で偶然、すれ違い、百福が見初めて彼女に猛アタックを仕掛けたことらしい。
百福は20代ながら当時、既にメリヤスを扱う繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」「日東商會」を台北と大阪で起業し、同時に簡易住宅や幻灯機の製造などでも利益を上げていたヤリ手の商売人だった。
「母は当初、妻子ある百福のアプローチなどまったく相手にしなかった。でも母に断られ続けた父は、憔悴しきって服毒自殺騒ぎを起こしたの。幸い一命は取り留めたのだけど、思い余った大房(正妻の綉梅)は母を呼んで『夫はあれほどまでに貴女を思い続けているのだから、どうか彼と一緒に大阪へ行ってあげて』と説得したみたい。それで母は二房になることを承諾し、奈良女高師を中退して大阪で新生活を始めた。大房は終生、母子家庭の私たちによくしてくれて、母とも強い絆で結ばれていたわね」(美和)
自殺騒ぎが本気だったのか狂言だったのか今となっては調べる術もなく、戦前とはいえ、不妊症と診断されたわけでもない妻が別の女に対し、夫の第2夫人になるよう勧めたというエピソードも、にわかには理解しがたい。
「百福は大阪へ生活拠点を移すとき、妻妾同居を始めた」
「大房はシンプアとして呉家にもらわれ、幼いころから働き詰めで学校も出なかった。無学な身の上を恥じていたから、奈良女高師で学ぶインテリでモダンな金鶯なら、百福の商売上の助けにもなると思ったのよ」(美和)
のちに綉梅は、小学生となった息子の宏寿を単身で大阪に行かせるが、それも、宏寿の教育を考えてのことだった。
台湾メディアはこれまで、「百福は綉梅に隠れて金鶯と関係を結び、大阪に移住する際は『おまえには馴染まない土地だ』と理由をつけて綉梅を伴わなかった。だが当然、綉梅は夫と金鶯の仲に気付いていた」と伝えている。
この点を美和に問うと「金鶯は綉梅を姉のように慕い、信頼を寄せていた。だから百福は1939年に大阪へ生活拠点を移すとき、綉梅、宏寿と金鶯を連れて妻妾同居を始めたの。でも、大房は台湾南部の農村から出たことがなかったでしょう? 日本の食生活にどうしてもなじめなくて、仕方なく宏寿を連れて台湾へ戻ったのね」。
ちなみに宏寿は生前、「週刊文春」(2007年2月1日号)の取材に応じ「台湾に残された母の綉梅は十分な仕送りを受けられず、親類の援助に頼ったこともあったほど困窮した」と語っている。
空襲下の大阪から台湾へ
大阪で金鶯と3人の子供をもうけた百福だが、関西財界の社交場「大阪倶楽部」で受付嬢をしていた安藤仁子と1943年から44年ごろに逢瀬を重ねるようになり、「家庭生活」は5年ほどで破綻する。金鶯は、百福が深夜に泥酔帰宅すれば自分も負けじと眼の前で大酒をかっくらうほど、勝ち気でプライドの高い女性。百福の裏切りは絶対に許さず、百福の制止を振り切り、子供らを連れて神戸港から台湾基隆港行きの船に乗った。
「それは1945年春のことだったと思う。大阪の空襲は激しさを増していてね、私たちが乗った客船も、基隆港から引き返したあとで爆撃に遭ったと聞いたわ」(美和)