その人は、なぜかいつも旧広島市民球場の香りをまとっていた。
2009年のマツダスタジアムのオープンから今年で10年。旧広島市民球場でプレーした現役カープ選手も数少なくなってきた。野手では石原慶幸、松山竜平、小窪哲也、赤松真人が旧市民球場経験者だが、彼らの場合、旧市民球場時代の一軍出場数よりもマツダスタジアムでの出場数の方が多く、印象に残るプレーの記憶もマツダスタジアムでのそれに塗り替えられているように思う。
しかし「その人」、唯一の旧市民球場経験投手である永川勝浩(以降永川さんと呼ばせてもらう)を見ると、なぜだかストライプのユニフォームに身を包み、旧市民球場の9回表のマウンドに上がる姿を思い出してしまうのだ。それは永川さんにとって本意ではないかも知れない。現役を続ける以上、どの選手も去年よりは今年、今年よりは来年と、より良い成績を残すことを目標としているはずであり、いつまでも過去の姿にとらわれて欲しくはないはずだからである。
「昭和の抑え投手」とは性質が異なっていた永川さん
なぜ永川さんに旧市民球場の残像が重なってしまうのか。一つの理由として、永川さんは旧市民球場時代の方が一軍登板数が多いことが挙げられる。特に旧市民球場最後の公式戦となった08年9月28日のヤクルト戦、9回表に梅津智弘の後を受けて登板し、最後の1アウトを取った永川さんの姿は強く印象に残るものでもあった。
更に、永川さんがリーグ最多の65試合に登板し1.66という防御率を残したのが06年、球団記録を上回る38セーブを挙げたのが08年。いずれも旧市民球場時代のことであり、「抑え投手・永川」という強い印象が旧市民球場で刻まれたのである。
ただ、旧市民球場が昭和の雰囲気を色濃く残した球場であったのに対し、永川さんは「昭和の抑え投手」とは性質が異なっていた気がする。昭和の抑え投手は7回、8回あたりのピンチになると登場し、そのまま試合を最後まで投げ抜くという存在だった。ピンチを食い止める「ストッパー」という和製英語で呼ばれるようになったのもそのためだろう。永川さんは9回に登場し、味方のリードを守るべく投げる(無論、守れないこともある)。90年代半ば頃から抑え投手の呼び方として定着した「クローザー」の方がイメージとしてしっくりくる。
そもそも永川さんをクローザーに固定したのはマーティ・ブラウン監督であった。ブラウン監督は06年の就任1年目から、先発の球数制限や投手の分業制を取り入れる投手改革を行ったが、当初はジョン・ベイルが9回を投げ、永川さんはセットアッパーとして8回を投げるという構想であった。ところがベイルが故障したため急遽永川さんが9回を任されることとなり、ブラウン監督退任の09年までそれは変わることがなかった。