『縁(ゆかり)』(小野寺史宜 著)

 嫌なことが何も起きない。そんな日ってあるのだろうか。朝、行かなければならないところへ行くだけで――バスや電車に何十分か乗って降りるだけで――大小の不快なことに遭遇するのは全然珍しくないし、家にいても、家族の言動にちょっと腹が立ったり、がっかりしたりしない日はない。心を平穏に保って仕事やタスクをこなす、つまり、それなりに機嫌よく「日常を運営」するのは、実はとても難儀だ。

 小野寺史宜『縁』に登場する人々は、皆それぞれの難儀さに直面している。傘や靴の修理の仕事をしている室屋忠仁は、ボランティアで少年サッカーチームのコーチをしているが、メンバーの母親との関係を疑われてしまう。人材派遣会社で働く春日真波は、店の予約をめぐる口論から恋人に突然別れを告げられる。大手印刷会社の係長・田村洋造は離れて暮らす無職の息子の尻拭いをさせられ、シングルマザーの国崎友恵は、親孝行な息子に余裕のある暮らしをさせてやれないことに罪悪感を抱いている。

 忠仁が語る冒頭の章で、傘を直して欲しいと彼の店にやって来る真波はとても感じが悪い。ほとんどクレーマーだ。しかし真波が語り手になる次の章を読むと、少しばかり彼女を擁護したい気持ちが生まれる。キツい言い方をしてしまう自分の性格を、彼女自身も持て余しているのだろうと想像できるからだ。かつて真波が「パパ活」をしていたときの相手、洋造は、真波の眼には非の打ちどころのない紳士に映るが、彼は同級生の友恵が息子の就職の口利きを頼んできたとき、大金を要求する。友恵は、家政婦として出入りしている老婦人の家の金庫から、その金を黙って持ち出そうとする。物語は章ごとに視点人物を変え、彼らが分かりやすい善人ではなく、わたしたち読者と同じように「普通に」裏表のある人間であることを描いていく。

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 読み進めるうちに、たとえば、友恵の息子や洋造の会社の後輩が、忠仁の教えるサッカーチームのコーチ仲間だったり、というような、四人にまつわる人たちのつながりの線がいくつか浮かび上がってくる。線はすなわち「縁」だ。ストーリー展開に直接かかわっていなくても、それらの縁を著者は大切に扱う。脇役にもきちんとフルネームを与え、平等に尊重する。誰もが誰かをつなぐ存在で、縁によって人は生かされているという真実が静かに伝わってくるのは、著者のその姿勢ゆえだろう。

 四人の抱える問題は、すべてすっきり解決するわけではない。だからこそほっとする。この先も彼らは小さな葛藤を重ね、その都度悩み、ときどき間違いながら生きていくんだろうと思えるからだ。自分と共通する部分があってもなくても、この物語を読むことで心救われる人がきっといる。忠仁が毎日傘や靴を直して、誰かの一日を小さく救っているように。

おのでらふみのり/1968年、千葉県生まれ。2006年「裏へ走り蹴り込め」で第86回オール讀物新人賞を受賞しデビュー。『ROCKER』でポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。主な小説に『みつばの郵便屋さん』『ひと』(2019年本屋大賞第2位)など。

きたむらひろこ/1966年、東京都生まれ。ライター、日本語教師、フリーアナウンサー。雑誌『英語教育』にて「本の処方箋」連載中。

小野寺 史宜

講談社

2019年9月19日 発売