なぜ、あの時、僕は志村の死に動揺したのだろうか
2009年から2010年に変わるカウントダウン・ジャパンにフジファブリックは出る予定だった。もちろん僕はそのチケットを予約していなかった。志村不在のフジファブリックのステージでは、生前の動画が流されたらしい、と後で誰かが話していた。でも、僕はその後もYouTubeなどで確認しなかった。なぜか分からないが、とにかく怖かったからだ。
2000年代を学生として過ごした僕らは、社会人として2010年代を迎える予定だった。そこに、志村とフジファブリックもいるはずだった。
なぜ、あの時、僕は志村の死に動揺したのだろうか。
同年の5月に忌野清志郎が亡くなった時も悲しかったけれど、その時とは比べ物にならないくらい、志村の死は衝撃的だった。
29歳という若い才能が失われたことへの悲しみだったのか。それもあったとは思うが、ちょっと違う。普段は意識しないけれど「いつもそこにあったもの」が予告なく、急になくなったことに恐れ慄いたと言ったほうが正しいニュアンスかもしれない。とにかく、あのニュースは、当時の僕にとって未知なる恐怖だった。
志村は、2010年を迎える直前に、1人いなくなってしまった。そして、2010年代は志村不在のまま――フジファブリックというバンドは続いているが――もう終わろうとしている。
2010年代の10年間、日本ではテクノロジーが急速に進歩し、色々なものが変わった。多くのものが消え、多くのものが生まれた。この時期に社会人生活をスタートし、いま中堅になろうとしている僕たち「ゆとり第一世代」は、その劇的変化の前で「若者代表」にさせられて、必死に対応してきた気がする。そんな10年間だった。
音楽も変わった。今、10年前の曲を聴いて「古いな」と感じることはしょっちゅうだ。人気のアイドルも変われば、バンドも次々と出てくる。
だが、そんな変化の時代の中にいても、2000年代の風景を歌っている志村の詞は、今聴いてもまったく古びることがない。むしろ、シンプルで意味深でちょっと前向きな歌詞は、普遍性を帯びて、あの頃以上の輝きを放っているようにも思える。
2000年代の終わりに姿を消した志村は、2010年代の終わりをもって、間違いなく「ゆとり世代」の伝説になった。残されたメンバーは、フジファブリックとして今も精力的に活動を続けている。志村が遺した数々の曲は、彼らの演奏によって、これからも聴き継がれていくのだろう、と思う。(文中敬称略)