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「ゆとり」を「控えめに」応援してくれた

 志村正彦というミュージシャンは、僕らにとって、どんな存在だったのだろうか。

 僕は音楽関係のライターではない、単なる素人のリスナーだ。彼がその後のJ-ROCKにどのような影響を与えたか、などの考察はできない。また、彼がどのような音楽性をルーツにしたミュージシャンだったか、ということを分析することもできない。

 しかし、そんな僕でも確かに言えることはある。

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©iStock.com

 志村が書いたフジファブリックの曲は、「ゆとり教育の第一世代」(1987年生~)と呼ばれる、現在30歳前後の人たちが大人に成長していく過程と一緒に存在していた。大人たちから「ゆとり」と言われて馬鹿にされた上、リーマンショックのあおりを受けて就職難まで経験した僕たちを「控えめに」応援してくれていた。

 フジファブリックのメジャー・デビューは2004年。「桜の季節」というシングルだった。

 高校2年だった2005年、僕はガールズバンドでドラムをやっていた女子から「桜の季節」のCDを借りた。

「私の好きなバンド。聴いてみて」

 と、彼女は言った。僕はこの時に初めてフジファブリックの存在を知った。

桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい?
桜のように舞い散って しまうのならばやるせない
(「桜の季節」2004、作詞・作曲:志村正彦)

 変わった曲だな、というのが第一印象だった。聴き慣れている「ロック」とはちょっと雰囲気が違うし、ボーカルの声も特徴的。歌詞もよく意味がわからなかった。

 その女子は、

「これは春ね。夏、秋、冬もあるから、貸してあげる」

 といい、続けて「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」の3枚も貸してくれた。四季を題材にした連作シングルだった。

 この3枚で、すっかりフジファブリックが好きになってしまった。iPodの通学の時に聞く曲リストにはフジファブリックの曲がずらっと並んだ。

僕ら世代より「お兄さん」である志村からのエール

 個人的な嗜好なのだが、僕はあからさまに「ガンバレ!」と迫ってくる「応援ソング」が苦手だ。頑張れって言われたらむしろ頑張れないよ、と思うひねくれたタイプで、フジファブリックの曲はそんな僕に合っていた気がする。

週末雨上がって 僕は生まれ変わってく
グライダーなんてよして 夢はサンダーバードで
ニュージャージーを越えて オゾンの穴を通り抜けたい
(「虹」2005、作詞・作曲:志村正彦)

東京の空の星は
見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな
そんなことを思っていたんだ
(「茜色の夕日」2005、作詞・作曲:志村正彦)

 当時は「応援されている」とは思わなかったが、改めて志村が書いた歌詞を読み返すと、遠回しだが、かなりポジティブなメッセージが伝わってくる。

 僕ら世代より「お兄さん」である志村(1980年生)は、思春期の子供がちょっとひねくれている、というのをわかった上で、このような曖昧な表現でエールを送ってくれていたのかな、なんて思ったりもする。