以前からあったセクハラ・性加害のうわさ
私と広河氏とのかかわりも、ここで明らかにしておきたい。
90年代に朝日新聞記者だった私は、広河氏の仕事に敬服していた一人で、写真展の記事も書いた。米ジャーナリズム大学院を修了した03年、DAYS創刊の構想を知り、支援を申し出た。それから十数年間、毎月一回は編集部に行き、編集を手伝ってきた。
その間、DAYS関係者などから広河氏によるセクハラ・性加害のうわさを何度か耳にした。しかし私は当事者間の問題だと考え、傍観を決め込んでいた。
だが、17年からの米国の#MeToo運動に触れ、私のそうした態度が被害を拡大させた可能性を自覚。広河氏について取材を始めた。ただ、遅きに失した面も大きく、私も批判は免れない。
反省も込めて、本記事が広河氏の素顔を知らせるとともに、「セクハラ・性被害は色恋沙汰ではなく人権問題」という認識が社会に広がる一助となることを願っている。
広河氏と、都内の大学生だった杏子さんが知り合ったのは、07年11月ごろのことだった。
フォトジャーナリスト志望だった杏子さんは、京王線・明大前駅にほど近いDAYS編集部でデータ整理などのアルバイトを始めた。編集長の広河氏がスタッフやボランティアを大声で罵倒する場面をたびたび目撃し、次第に「逆らってはいけない人」と考えるようになった。
「人権を大事にする偉大なジャーナリストという信頼がありました」
知り合って1~2カ月が経ったころ、杏子さんが撮った写真を広河氏が見てくれた。「キミは写真が下手だから僕が教えてあげる」。そう言われ、指定された日時に京王プラザホテルに来るよう指示されたという。
ホテルに着いて広河氏の携帯に電話すると、「部屋に上がってきて」と言われた。えっ? と杏子さんは思ったが、広河氏から以前、ホテルにカンヅメになって原稿を書くことがあると聞いていたので、このときもそうだろうと考えた。
「そもそも、人権を大事にする偉大なジャーナリストという信頼がありました」(杏子さん)
だが、その信頼は完全に裏切られた。あっという間にベッドに移動させられ、抗えないままセックスが終わった。茫然としていると、「もうすぐモデルの子が来るから部屋をきれいにして」と広河氏に急かされた。まもなく部屋に若い女性が現れ、彼女をモデルに撮影するよう言われた。30分程撮影し、ストロボの使い方などを教わったという。この夜、杏子さんはどのように帰宅したのか記憶がない。
この一件のあとも、杏子さんはDAYS編集部でアルバイトを続けた。その理由をこう説明する。
「私のような素人の学生がフォトジャーナリズムを学べるのはDAYSだけだと思っていました。これであきらめちゃいけないと自分に言い聞かせていた。同時に、もう絶対に同じことはしないと決意していました」
だが、杏子さんにとって平穏な日は長くは続かなかった。
08年を迎えた頃、編集部から徒歩数分のマンションにあった広河氏の事務所に呼ばれた。中に入り、スタッフの男性と世間話をしていると、事務所にいた広河氏に突然、「お前たち、ここは談笑の場じゃない! 出て行け!」と怒鳴られたという。
「ここで見放されたら、ジャーナリストの道は開けないかもしれない。そう思うと頭が真っ白になりました」(杏子さん)
泣きながら明大前駅に続く商店街を歩いていると、携帯電話が鳴った。広河氏だった。「いまから移動するから一緒に来なさい」。命じられるままに広河氏とタクシーに乗ると、新宿・歌舞伎町のホテルに連れて行かれた。「こういうときに許してほしいなら、こうしてわかりあうのが一番だから」。セックスの前か後、杏子さんはそう言われた。広河氏はコンドームで避妊していたという。