「深く」勉強するということ
では、そろそろ本題に入りましょう。
現代は、「勉強のユートピア」だと言えます。僕が90年代末に学生だった頃に夢見ていた、いくらでも勉強できる環境が整っている。ネットには、百科事典もあるし(ウィキペディアは情報の信頼性に問題がありますが、スタンフォード哲学百科事典のように専門家のチェックを経ているものもあります)、査読論文もあるし、公式の統計データもある。一方で、紙の本に目を向ければ、2000年代から、入門書が充実してきています。第一線の専門家が、明快な解説を書いてくれるようになった。哲学で言えば、昔なら、ハイデガーの『存在と時間』をいきなり読め、と言われたりしたものですが、今は最初の一歩を踏み出すのにふさわしい新書や選書が出ています。どんな分野でも、「まずは入門書を読んで勉強しよう」と気軽に言いやすい時代になりました。
しかし一方で、今は情報が過剰であって、そのためにかえって勉強の意気がそがれる面もあると思うのです。そこで大事なのが「有限性」の設定です。情報を絞って、「ここまでの範囲でいい」と設定することです。たとえばハイデガーを学ぶ際には、「まずはこの3冊だけ読んでみよう」というように有限化する。その範囲で足場を固めることから始める。教師の役割も、まさにそこにあります。教師とは、豊富に知識を与えてくれるというよりも、「まずはこのくらいでいい」と、勉強の有限化をしてくれる存在なのです。有限化の装置なのです。だから皆さん、先生や先輩と話をする時には、どんな有限化をしているかに敏感になることが大事です。それこそが経験者の知恵なのです。
『勉強の哲学』では、「深く」勉強するとはどういうことかを考察しています。一般的には、勉強とは、これまでの自分に新しい知識やスキルが付け加わるような、自己が増強されるようなイメージかもしれません。しかし、これまでの自分の価値観が変わってしまうような勉強が、「深い勉強」なのです。外国語を覚えるとかある分野の固有名詞を覚えるような「いわゆる勉強」が、実は、深い勉強につながっている。自分の殻を打ち破って、新たな生き方へと「変身」するような勉強です。この意味で、勉強とは自己破壊なのです。今までの自分を根本から揺さぶる、ラディカルな変身=自己破壊。しかし、多くの人はこれを恐れている。なぜなら、かつての自分を失いたくないからです。それは時に、損をすることにもなりかねません。
一般に世の中には“勉強フォビア”があります。多くの親は子どもに「勉強しなさい」と言いますが、それはほどほどに、であることが多いはずです。ほどほどに勉強して、社会にうまく適応してほしい。勉強しすぎて、ヤバいやつにはなってほしくないのですね。むしろ国家、あるいは家庭の、様々な環境の統治になじみやすい人間であってほしいというのが大方の本音でしょう。世の中には、様々なテクニックを使って人間を統治するシステムがあります。あるいは、ノリをあわせなければならないような同調圧力がある。ならば勉強とは、そういうシステムや空気を分析し、「それに捕らえられない自分の生き方」を開いていくためにやるのでなければならないのです。ドゥルーズ&ガタリの言葉を引くならば、それは「逃走線」を引く、ということです。一見がっちりと統治で固められたシステムの中に、裏口から抜けていくルートを見つける。社会システムを自分なりに捉え直し、別の価値を作りだすことで、「いまここ」にはない逃走線を引く――勉強とは広く、統治に対する抵抗にもなりうるのです。